春吉省吾のブログ

物書き・春吉省吾のブログです。マスメディアに抗い、大手出版社のダブスタに辟易して一人出版社を営んでいます。おそらく、いや、世界で最もユニークな出版社だと自負しています。

春吉省吾・平成30年9月の近況 VOL.46

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 9月となりました。東京はいまだに暑さが続いておりますが、皆様にはお元気で御活躍のことと存じます。
  私事ですが、病気再発の確率を少なくするために、年齢と体力を無視して、追加の維持療法を受けたのですが、3回目の7月31日に実施した副作用が強く、結構辛い思いをしました。何事も先を焦るといい結果にはならないようです。回復におよそ一ヶ月ほどかかりましたが、お陰様でようやく現状に戻りつつあります。
 また7月に入って、夜寝ていると右肩が鈍く痛み出し、病院に行ったら変形性肩関節症と診断されました。簡単には治らないようです。痛み止めの湿布をしても、余り効きません。可動域が少なくなったのを知った上で、筋力アップとストレッチをしています。一晩寝れば自然に治るという若さは失われ、この先「違和感」を自覚しつつ、年齢とどう向き合ったらいいのか、否応なく知らされることになりました。
 それはいみじくも、今年の5月に上梓した「言挙げぞする」という哲理的随筆集の執筆主旨と一致します。
 つまり我々日本人が今まで盲信してきたことを洗い直し、自分の置かれた立場と能力を知って、「次善策でよし」とする柔軟な思考を持つことです。
 国力も、経済力も黄昏期に入り、今までの即物的な倫理観や道徳観では、自己を律することが出来ません。上っ面だけだと忽ち馬脚を現してしまいます。昨今、社会的地位にあった(と本人も周囲も勘違いしていた)人達や、協会や連盟と言われている組織で、様々な不祥事が明らかになっていますが、これは氷山の一角です。
 また 「勝ち組」「負け組」など、いまだに経済的勝ち負けに拘っていている日本人の何と多いことか。笑止である。「いい加減に判れよ」といいたいのですが、拙著の読者以外は、その意味するところをよくご理解いただけないかも知れません。
 ともあれ、これからの時代、「負けないため」にどうするかと考え続けるそのプロセスの中から、人生の深い意味を知ることが出来るはずなのです。  
 しかし従来の日本人が持つ、歴史観・宗教観をもってしては、常に喉の奥に小骨が刺さっているような状態が続くことになります。
 「言挙げぞする」では、例えば、従来までの仏教・儒教神道などの、偏頗な思い込みや慣習を破らなければ、「新たな視界は広がりません」と、その基本をやんわりと記述しました。
 いずれもう少し踏み込んだ続編を書くことになるでしょう。
                                      さて、現在の執筆情況ですが、
 四季四部作の長編時代小説「秋の遠音」は上巻部分(400字詰めの原稿用紙で700枚)を書き終え、現在下巻の280枚ほど書き進めています。寛政年間から明治25年まで、およそ90年間の物語です。今年中には脱稿出来るでしょう。来年前半には上下巻にして上梓したいと思っております。
 これで当初計画したライフワークの「春夏秋冬」の歴史小説もようやく終了です。これらに登場する主人公は全て実在の人物ですが、殆ど資料の残っていない人物達でした。取材や資料集めから、執筆、編集、販売と「超長編」の四部作を、挫けずにやり遂げてきたなと、自分を誉めています。最後まで気を緩めずにこの「秋の遠音」も感動作にしたいと思います。
 「初音の裏殿」も書き始めました。幕末期、旗本6千石の架空の主人公を軸に据え、善悪を飛び越えたアウトローの物語です。西郷も、勝も、龍馬も、大久保も、岩倉も、明治の「偉人」といわれる人物達は、果たして「そんなきれい事だけの人間か!!」というのが、作家春吉の立場です。
 上記偉人達への手放しの信奉者には、とんでもない物語になります。膨大な資料の読み込みが必要ですが、これら歴史上の有名人達は資料に事欠きませんので、いかに楽しく読んでもらえるかというのが、この執筆テーマです。
 主人公は、皇室の血を引く、領地持ち旗本という設定ですので、孝明天皇の祖父にあたる光格天皇の御代から、皇族、公家のことを調べましたが、とても一筋縄ではいきません。
 主人公は、幕府も、朝廷も、薩長も、日本を翻弄させた海外列強、禿鷹のような外国人貿易商、三井、住友などの豪商達を相手に、とんでもない「怪物」ぶりを発揮します。このような主人公を幕末の歴史の中で活躍させることは、物書きとして限りない快感です。歴史的事実はきっちりと抑えながら、クールなエンターテインメント中編として、シリーズ化していきたいと思っています。                                                                 平成30年9月2日
                                                                                      春吉省吾
◆写真説明
●8月7日、福島在住の母に会い、墓参の後、時間が余ったので飯坂町の大鳥城跡を訪ねた。源義経の郎党、佐藤継信・忠信兄弟の父、佐藤基治(元治)の居城であった。基治は鎌倉方の伊達朝宗(伊逹家の祖)によって討ち取られ、首を阿津賀志山経岡に晒されたという。
●誰も居ない大鳥城跡本丸の空間、「クマに注意」の看板に少し怯む。
福島市内の公園には放射能測定器が設置されている。この場所は0.110マイクロシーベルト/時。国の基準は、0.24である。この基準の是非は素人の私には判らない。
●8月28日、東京国立博物館で開催の「縄文」展を見てきた。混んでいた。縄文時代を1万3千年前からと断定していたが、考古学の進歩により、常に変化するというのが正しい認識だ。(私は暫定1万4千年前とする)
●ダイナミックな土偶、土器類は、中国・黄河文明メソポタミア西アジアの出土品と比べても、その立体感・独創性は群を抜いて凄い。我々全ての日本人には縄文の血が、2割以上入っているのだ。詳しくは拙著「言挙げぞする」を参照してください。

言挙げぞする~人智の及ばざる処だが、それを悪化…… VOL.45

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●平成30年6月18日の大阪北部地震からそう日が経っていない7月5日午後2時、気象庁が緊急会見を開き、「非常に激しい雨が断続的に数日間降り続き、記録的な大雨となる恐れがある」と最大級の警戒を呼びかけた。この日から西日本の広い範囲で大雨となり、甚大な被害となった。7月9日に気象庁は「平成30年7月豪雨」(西日本豪雨災害)と命名した。
7月18日 14時現在、NHKの取材によると今回の記録的な豪雨で、これまでに広島、岡山、愛媛を中心に、216人が死亡し、15人の安否が不明という。心よりお見舞い申し上げますという以外に言葉がみつからない。被災地域の1日も早い復興をお祈りします。
被災地をはじめ、列島はうち続く熾烈な暑さにぐったりしている。

 

●この現象はCO2による人為的地球温暖化説など吹っ飛んでしまうような、地球環境の恒常的な変動の時期に入ったと認識している。
昨今、多くの科学者の主張によれば、CO2等の原因による地球温暖化説とは違い、今後、地球全体が寒冷状態になるという。地球環境の苛烈な変化はその氷河期に入り始めた初期の現象で、猛烈な暑さや、寒波、大雨、旱魃等の激しい気候変動はこれから10年から20年程続き、やがて平均化し気温は着実に下がり、今後200年から250年間続くというのである。興味のある方は、最近の科学論文を見て頂きたい。
また、地球そのものが活発化し、世界規模で地殻変動が起きている。日本も当然、いつ巨大地震や火山の噴火が起こっても不思議でないその真っ直中にいる。
何れにしても、何時何処でとのような規模で天災が起こるか判らない。全て後追いなのだ。


●地球は人間(の文明)によって気温や気候が変化させられるのではなく、それらはすべて地球と宇宙が持つ時間的なサイクルの中で決められている。気候の変動に関しては「太陽」が大きく関与し、全て「地球」は受身にしかすぎない。いわんや、そこで生きている人間を含めた生命体も、その影響下にある。
つまりは悠久の天地の在り方は人智の及ばざる処と解釈すべきだ。
天災を避けることは不可避だが、先の東日本大震災で東電が犯した原発事故のように、減価償却期間を越えて稼働すれば丸々利益を得られるというような姑息な手段によって天災を更に助長させる様な人災を決して生じさせないように、情報のオープン化、指導者達の意識を根本から変えていくしかないのだが……。


●「気球温暖化説」を取ろうが「氷河期説」を取ろうが、向こう10年間の気候変動は、今まで以上に激烈な、熱波と寒波が交差する気候になる。
さて東京オリンピックは2020年7月24日(金)~8月9日(日)に開催される。パラリンピックは、2020年8月25日(火)から9月6日(日)までの開催。
よりによってなぜ猛暑の時期に開催するのか?
ここに来て、屋外での競技時間を早めるような、小手先の変更をしているが、選手や屋外の観客にとって過酷なことには変わりはない。
気候の良い、梅雨前の春や、台風の来襲が一段落した秋にどうして実施しないのか。
理由は簡単、全て「銭の世界」なのだ。オリンピックはもはや、銭に群がるハイエナたちの集金システムと成り下がり、IOC(国際オリンピック委員会)は莫大なTV放送権料やスポンサーを獲得するための機関であるからだ。
世界中のスポーツ大会を見てみると、8月中旬からは欧州各国でサッカーのリーグ戦が開幕する。9月は一番多く放送権料を払うアメリカでNFLが開幕する。メジャーリーグポストシーズンに入る。10月はアメリカ・メジャーリーグワールドシリーズが始まる。6月は欧州サッカー、ユーロ(欧州選手権)がある。この時期と重複しない期間が上記のオリンピック開催期間というわけだ。


●オリンピック組織運営の裏側は、こんなものだ。いくらアスリートファーストをテレビやポスターで宣伝しようが、どうにも違和感を禁じ得ない。
IOCJOC(日本オリンピック委員会)の役員達の金臭い顔は見るに堪えないし、さらにその背後には様々な代理店はじめ巨大な利益を貪る企業集団がおり、その下請け、孫請け、曾孫請けが仕事に群がり、それを政治的に利用する人物が跋扈する。マスコミはじめ、あらゆる団体が「美しき感動のオリンピック」と鼓舞する。この実態を指摘すると、非国民扱いを受けてしまう。


●このオリンピックという代物は、絶対失敗がない。失敗しても「失敗無しと強弁できる」のだ。シンボルマークや競技場設計のやり直し、過大な水増し見積もりなど、様々な問題があったがいつの間にかあやふやになってしまったではないか。いい加減なことをやっても、全て隠蔽しJOCの役員以下誰も責任は取らない。
本来ならば、JOC会長以下、開催都市である東京都の担当者達は総辞職して然るべき問題なのだ。(その点では、小池東京都知事は頑張ったと評価していたが、豊洲問題と自分の政治的野心を絡めてしまい、最後の詰めが出来なかった)
違約金・水増し工事など、支払わなくていい金額が、数百億円余分に支払われている。これらは全て税金で補填される。そうして「日本中が感動し、素晴らしい大会であった」と幕引きするのだ。その後に起こる日本国民への負債や、過剰設備投資による不況、建造物の恒常的維持費の負荷などお構いなしだ。
オリンピックというイベントが残り2年後を切った今こそ、我々日本人は冷静に考えるべきなのだ。1964年に開催された第18回夏季オリンピックとは、置かれた状況が全く違う。当時の国威発揚と現在の日本の置かれている環境は全く異なっている。


●これらオリンピックの一連の背景を知るにつけ、私は法華経の「従地涌出品」第十五を思いおこす。
「善く菩薩の道を学びて、世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るが如し。地より涌出し、みな恭敬の心を起して、世尊のみまえに住せり」とある。
(汚れ切った世間にあっても、 汚れず清らかなかれらは、あたかも蓮華が泥水の中から出て来て華を咲かすように、今日ここに集まってきたのだ。)
「如蓮華在水」という法華経の中でも、有名な部分である。
私は仏教者ではない。法華経経典としての意味づけから外れるが、法華経を漢語に翻訳・創作した、鳩摩羅什の苦悩と汚辱に満ちた経験に沿った解釈をする。

●泥水のオリンピック組織の中で、アスリート達は蓮華の花である。青春の全てを賭け、己を信じて、オリンピック選手に選出されるために厳しいトレーニングを積み、命の限り戦う。その動機はさまざまだが、自分自身と戦い、あらゆるものを捨てて、オリンピックという場に上る。
2020年夏季オリンピックでは、33競技339種目が実施される。パラリンピックは22競技537種目が開催される。
人間が全てを賭けた姿は美しい。肉体的にも精神的にも限界まで鍛え上げ、運にも恵まれた勝利者は、まさに泥水に咲く蓮の花だ。勝利を信じて、戦い燃焼する姿に感動しない者はいない。そして日本人が金メダリストになれば、我が事のように誇らしい。メダリストになった勝者は人生の中でも輝ける瞬間であるに違いない。


東京オリンピック・2020大会ビジョンは「スポーツには世界と未来を変える力がある」というものだ。そして3つのコンセプトは
「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」、 「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」、 「そして、未来につなげよう(未来への継承)」 を3つの基本コンセプトとし、史上最もイノベーティブで、 世界にポジティブな改革をもたらす大会とするというものだ。
このビジョン、コンセプトはあまりに陳腐だ。ここまで見てきたようにIOCJOCの組織の実態とは、対極のアイロニカルな言葉である。
コンセプトの3つ目(未来への継承)のなかで、「東京2020大会は、成熟国家となった日本が、今度は世界にポジティブな変革を促し、それらをレガシーとして未来へ継承していく」とある。
IOCは「Olympic Legacy(オリンピックレガシー)」という考えを提唱し、それにより競技施設やインフラ整備が図られ、人々の利便性が高まり、より豊かな暮らしになっていくという。この「オリンピックレガシー(遺産)」という発想は、今や時代遅れのモノ思考で根本的にずれている。


●かつてオリンピックを開催した都市は、その後、競技施設の維持費にどれ程苦しんだか歴史の知るところである。我々東京オリンピックに課せられたポリシーは、将来に向けた、無形の資産を形成、具体化することがイノベーティブで、ポジティブな実施コンセプトだ。それが本来オリンピックに求められるもので、「法華経の慈悲のこころ」に通ずる。
蓮の花に昇華したアスリートの陰に、不運にも夢が叶わず、朽ち果てた種子がどれほどあったろうか。日々の暮らしに不安を抱えながら、オリンピックを目指すが、不幸にもオリンピック出場もかなわなかったアスリート達の、第二の人生を補助できないようでは、成熟国家とはいえない。敗者となったアスリート達を掬い上げる経済的組織を作り上げる智慧が必要だ。それこそが「法華経智慧」ではないか。挫折を糧にして乗り越えようとする人材が、次世代の日本を担うもっとも必要な人材なのだ。無駄に使われ、おそらくこれからも無駄に使うであろうそのコストをあらかじめ先取りして、恵まれなかったアスリート達の経済的援助をする財団を作るべきだ。但し、くれぐれも官の天下り先にならないような組織にしなければならない。


●既に日本に残された、時間と資金は限られている。
PwC(プライスウォーターハウスクーパース)というイギリス・ロンドンに本社を置くコンサルティング会社が2017年版最新の 「2050年経済大国予想ランキング」を発表した。
それによると日本は大幅ランクダウンして、世界8位という。1位中国、2位インド、3位アメリカ、4位インドネシア、5位ブラジル、6位ロシア、7位メキシコ、8位日本、9位ドイツという結果が出た。
現在3位の日本が、2030年代には急速に国力が衰え、2050年には8位の地位に甘んずるという予測である。経済力に頼ってきた日本は「金の切れ目が縁の切れ目」となって、他国に対する発言力が一気に激減する。
実質GDPシェアは1990年当時、世界経済 の中で15%を占めていたが、2050年には3%弱になる。銭のばらまき外交は出来なくなるのだ。
人口急減、超高齢化は、いかんともしがたい。加えて、日本の低成長経済と膨らむ負債、日本全国の中小都市の殆どが、シャッター商店街になり、日本のマンションがスラム化し、道路や橋梁などのメンテナンスも出来なくなる。オリンピックで作った「箱物」はどれ程国力を圧迫するか普通の想像力があればわかる。「レガシー」が負の象徴、「廃墟」になる。


アメリカはトランプの保護貿易のような目先のごり押しで、国力昂揚をすればするほど力が削がれる。アジアの秩序を左右する中国は、虎視眈々と日本の国力低下を狙っている。しかし中国も、実体を伴わない資本投資でこのまま一体一路政策を推し進めると、経済不調に陥る。2020年代に分裂、崩壊すると予想する学者もいる。
現在、習近平体制の独裁が加速化しているが、国内外の民主化勢力の弾圧、IT・ビッグデータ管理で農民の不満を未然に察知し抑え込もうとしているが、そうはいかない。
後漢黄巾の乱、 唐末の黄巣の乱、 元末の紅巾の乱、 明末の李自成の乱、 清中期の白蓮教徒の乱、清末の太平天国の乱など、中国共産党政権が最も怖れているのは、今も昔も農民だ。
中国共産党は、民主化勢力と農民が結びつくことに神経を尖らせているが、早晩その箍は外れる。日本は、この先これらの国々と微妙なパワーバランス政策を採り続けなければならない。


●そして、日本が、中国、インド、アメリカにとって未来を決めるための変数になり得る間に、即ち影響力があるうちに、日本人として何をどうするかという根本の哲理を持たないといけない。
拙著「言挙げぞする」は、私の思想の一部を要約し、卑近な例を用いて記述したが、それを急がなければならないのは、この一文に記載したとおりである。
今後、世界を変える技術革新は、情報技術、機械化と生産技術、資源管理技術、そして医療技術の4つであるという。〈「2030年 世界はこう変わる」(米国国家情報会議=編)〉
なるほど、これら4つの技術革新は、今後の日本の未来に確実に影響を与える。しかし、日本国民として、江戸・明治・大正・昭和・平成に至るまで、複雑に絡み合った、儒教、仏教、道教神道は様々な夾雑物と混じり合って、日本哲理の物差しが役に立たなくなってしまった。その物差し(価値を判断する基準)を使えるようにするには、日本人一人一人が宗教観について、きっちりと考えることである。私は多くの日本人が腑に落ちるような哲理は、原始神道(古神道)の中にあると結論づけた。原始神道は、決して国家神道神社神道ではない。
明治から昭和初期まで、完全に排斥されていた縄文文化は、柔軟で粘り強い、あらゆることを包含し、強靱な思想である。縄文のDNAをもつ我々日本人にはその精査こそが必要なのだ。拙著「言挙げぞする」にその一部を記載した。是非読んでもらいたい。


●地球上の自然の猛威は「人智の及ばざる処」だが、それを悪化させ、更に加速させているのは、残念ながら「強欲と不浄の革袋である人間のあざとさ」だ。
権力欲に取り憑かれた指導者が、口先三寸で、事実を隠蔽し、日本に残された最後のチャンスを無駄に潰すのは許しがたい。安倍晋三はオリンピックまで居座り、歴史的「箔」を残したいのだろうが、昭和の妖怪と言われた、祖父の岸信介にはまだ確たる信念があった。
自民党も、連立を組んでいる公明党も、権力に取り憑かれるとこうも堕落するのだ。参院定数6増改正案成立やカジノ法案「IR」法案の強行採決など「末期症状」だ。あるべき国家デザインに逆行し、これ以上国力を削いでどうするのだ。南海トラフト・東海大地震・富士山大噴火などひとたび起きれば、今のままでは日本は、壊滅する。GDP8位に留まるどころか、巨大負債国に成り下がるだろう。
野党もひどい。ステレオタイプな批判がニュースで放映されると、チャンネルを変える。

●その権力を支えているのが中央官僚達だが、せっかく優秀な頭脳を持って生まれた彼等の官僚としての矜持は何処へ行ったのか。優秀な頭脳とは、単に「情報処理能力」「記憶力」そのスピードに優れているだけだとしたら、その能力は簡単にAIに置き換えられる。「コミュニケーション能力」も権力に阿る「忖度」に堕ちてしまった。本来の知恵者は、深い知識、発想力などが必要だが、官僚の前に、事の本質は何かと考える物差しがなければ日本人としての体をなさない。明治以来今に至るまで、正しい歴史観と宗教観が欠如している。それらを学ばなかったのだからあたりまえなのだが、それを認めて、先入観を捨て本気で学べば、若い世代は、まだ間に合う。
実は明治以来の国威発揚と、グローバル競争に勝ち抜くためのナショナリズムは同質だと言われて久しい。それでは何の進歩もない。同じ失敗の轍を歩むだけである。
しかし日本人としての正しい歴史観、宗教観に基づき、その哲理をひとり一人が醸成する事により、結果として新しい異相のナショナリズムがうまれる。世界に伍す個性的日本人が生まれる。国力8位になろうとも、そういう日本人がいれば、問題解決能力の高い、こころ豊かな日本人の暮らす日本が存在し続ける。
                   2018.7.27 春吉省吾
●写真説明
◆酷暑の午後3時30分、新宿南口の人混みは何時ものおよそ4分の1。サザンテラスは人影もまばらだ。2018.7.24
◆一昨年、8月上旬、福島の国見町で撮影した中禅寺蓮。
古戦場(阿津賀志山防塁)の眼下に咲く。平泉中尊寺に伝わる藤原泰衡(第4代当主)の首桶の蓮の種が800年の眠りから目を覚まし開花した。蓮の種を中尊寺から預かりここに移植。

 

紀伊國屋書店台湾 VOL.44

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 数日前に、「言挙げぞする」というワードで検索したら、ヤフーのサブジェクト機能に「紀伊國屋書店台湾」というサイトが表示されたので、さっそく開いてみた。(写真添付)
 購入するのは在台湾の日本人だろうが、著者の立場からいろんなことを考えた。
「言挙げぞする」の14章「儒教の宗教性と仏教」─本当の儒教を知らない日本人─では、孔子以前の儒から考え起こして、儒教の強烈な「宗教性」を明らかにした。中国にあっては儒教は宗教そのものなのだ。本来宗教とは「宗教」+「道徳」が必ずセットになって、宗教となる。
「宗教」とは生死観の核心部分を指す。日本では宗教教育が行われていないので、宗教とはどういうものかわからないまま、「道徳」のみの偏頗な理解しかない。あわせて、世界の宗教がどんなことなのかと、比較することも全く学んでいない。これは、近い将来、日本民族にとって致命的なことになる。(既になっていると言い換えてもいい……)
 日本人の儒教観は、論語朱子学陽明学(宋学)などの道徳部分の「儒学」しか理解できない。誰からも、それ以外のことを教えられないのだから当然と言えば当然なのだ。江戸中期から明治・大正・昭和とそれをよしとして現在に至っている。だから「中国人」と接するとき、間違った物差しをずっとあててきたのだ。(これを30年前に正しく指摘した学者は、加地伸行先生ただお独りであった)
台湾人達は同族なのでそのような過ちは犯さない。大陸の中国に常に政治的にも経済的にも呑み込まれてしまうという危機感を抱きながら、日々暮らしているので、拙著の内容を遙かに敏感に理解するはずである。「儒教」の脅威が何であるかという根本を理解出来ない日本人は、中国の大きな脅威に対抗できない。同時に個としての中国人の生死観を知らないのだから、彼等と真摯に向き合うことが出来ないにきまっている。
儒教に限らず、日本的亜流「仏教」となってしまった、檀家仏教・葬式仏教も浅い。それら間違った物差しを修正する糸口として、拙著を役立ててほしいものだ。


 ワールドカップ予選リーグで、日本チームがベスト16に勝ち上がった。
試合終了のホイッスルを聞くまで同点ゴールを目ざせば、観衆からブーイングを浴びることはなく、果敢に戦ってフェアプレーポイントの優位性が崩れ、セネガルに2位を譲ることになっても、美しき敗者、勇敢な行為を為し遂げるサムライとして讃えられたという意見がある。
日本チーム率いる西野監督の指示による、後半10分のボール廻しは、「武士道」にあるまじきことだという批判だが、それは全くの見当違いだ。国技に近く馴染んでいる欧州や南米のサッカー国のサポーターが皮肉ややっかみで言うのは放って置けば良いが、日本人がそういう発言をするのは実に甘く浅い認識だ。
そもそも「武士道」とは何かという概念を理解していない。
 

 作家、司馬遼太郎氏は戦後の日本人が失ったものとして「武士道」をあげた。武士道が美徳とする礼節、忍耐、貞節、忠義、責任、潔さ、名誉、尚武の気風等々は日本人が失ったものだという認識である。特定の宗教をもたない(と思っている)日本人にとって、それに代わる唯一の倫理規範が武士道というわけだ。しかしそれはあくまでも一面的なことである。
実は「武士」というものが世の中から居なくなって久しい明治も後期に入った19世紀の終わり頃から「武士道」という言葉が流行った。この「武士道」とは、近代国家を目指す時期に創られた言葉である。
1899年に『Bushido: The Soul of Japan』「武士道」という著書を残した新渡戸稲造博士は、武士道の7つの徳(礼、忠義、誠、名誉、仁、勇、義)をベースにして、日本人は倫理観が高く、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されており、とくに武士はそういう意識が高いと説いた。日本人はキリスト教徒ではないが、決して野蛮人ではないということをアピールしたかった。日本にも西洋の騎士道に似たものがあり、実践されていたと、欧米人に知らしめるため、武士の道徳的価値観の中から、理想的部分を選んで作り直し、日本社会が過去から受け継いできた倫理観の理想を描いた創作なのだ。
倫理性だけをみれば江戸時代の武士よりも、商人の方が高い倫理性を発揮しており、慈善事業は、もっぱら経済力のある商人や篤農家がおこなった。
 

 むしろ真の武士道を知るには宮本武蔵の「五輪書」を読むのがいい。13歳から61歳の生を終えるまで、真剣勝負をし続け、約60の試合すべてに勝利した。「五輪書」は戦いをするために必要な準備、そして実際に戦うときの考え方、心の持ち方、体の使い方が書かれている。また戦いのみならず、人間行動の核心をつく本質が簡潔に書かれている。しかしかくいう武蔵も、53歳の時、島原の乱では小笠原家の隊長格で久々に出陣したが、足に一揆軍の投石を受けて負傷し、大きな働きはできなかった。情報収集が甘かったのだ。


 諸般の事情で、急遽日本代表監督を引き受けられた、西野監督の心中の辛さは、察して余りあるが、本戦までの短い間に、勝つための、あるいは負けないための情報を集めたことであろう。予選突破が絶対命題である限り、監督として、個々の選手達の心を掴み、戦う集団として鼓舞し、更には新しく導入された、1)ビデオ判定、2)戦術的な目的で電子機器を使用可能、3)決勝トーナメントの延長戦における4人目の交代、4)フェアプレーポイントの規定などをどう使いこなすか、コーチ陣とのコミュニケーションも大切であった。特に問題の10分間のパス回しなどは、2)、4)などを徹底的に利用した結果である。西野監督は、自己の意志決定を信じ、自力であろうが他力になろうが、腹を括ってぶれなかった。監督を信じて戦った選手達も立派だった。
 この決断は、120年前に創作された理想の「武士道」イコール日本人であるという従来のステレオタイプの考え方を変えた、新しい日本的実践思想に通ずるものであると私は評価する。

 日本人が世界に通ずる「武士道」を新構築するためには、あらゆる武道における「残心(身)」を、もっと深く考えることが必要である。この私論は、日本人が世界に対して新しい一歩を歩み出す、大切な実践論になると思う。「残心(身)論」については、体系的な説明が必要なので、何れ講演会などで直にお話し出来ればと思っている。     平成30年7月2日  春吉省吾

写真説明上から
●「紀伊國屋書店台湾」のブログに掲載されている「言挙げぞする」。著者としては変な感覚だ。
●友人が送ってくれた飯坂温泉の「ラヂウム玉子」。この美味さを知ると他のどんな温泉玉子も食べられなくなる。
●猛暑の「梅雨」と思っていたが、いつの間にか「梅雨明け」だという。近未来の自然現象はこの先も、予測不能のようだ。

春吉省吾 急に思い立って VOL.43

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●代々木八幡、恒例の「茅の輪くぐり」がはじまった。2018.6.19

●お稲荷さんの販売店。ここの通りがオペラ通りというらしいが、陳腐な名前だ。

 

 長編歴史小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」を本気で執筆しはじめたある日、調子に乗りすぎて、朝まで作業をしてしまった。
 通常、夜7時に食事をして、以降は何時になろうと、コーヒーとお茶と水しか摂らない。
 その朝、猛烈に「稲荷ずし」を食べたくなった。それも、デパートの有名ブランドではなく、コンビニのものでもなく(大手コンビニ3社の稲荷ずしは、それぞれに特徴があり、種類もあってコスパは良い)、頬張ると甘く濃い出汁が垂れてくるような「稲荷ずし」を食べたい!!
 昼前に、京王新線初台駅新国立劇場横の近くの蒟蒻屋さんにいって、稲荷ずしとピリ辛蒟蒻を買った。併せて540円。
その帰り道、リンゴか食べたくなった。スーパーに売っている時期外れのリンゴを買ったことがあるが、昨年の冷蔵りんごの売れ残りで、品質も味も最悪だった。
 近くの青果店の店頭に、リンゴは出ていない。何時も店頭に出ているときにしか買ったことがなかったが、おばさんに聞いてみた。
「リンゴはないよね」
「旬じゃないからね。だけど、冷蔵してあるリンゴはあるよ。きっちり温度管理しているから、旬じゃないけど美味いと思う」
2個400円で購入。稲荷ずしも、リンゴも美味かった。
一見何気ない「専門店」の長年の経験と商品の品質管理に唸った。専門店の安心は、生産者や販売者の顔がきちっと見えることだ。私の購買エリアは、渋谷区の西原、幡ヶ谷、初台、笹塚辺りだが、住み始めた33年前と比べると、個人商店の「専門店」は今や数えるほどしかなくなってしまった。昔を懐かしむノスタルジーはあるが、商品の仕入、流通のシステムが激変してしまった現在、消費者としては、出来うる限り頑張ってと思いつつ、近くの「専門店」を利用する。残念ながらそれ以上、何もできない。

 

 時代の流れは、加速度が付いたように速くなっている。それに伴って、早い決断、果敢な行動を殊更求められているようだが、はたしてどれ程上手くいっているか疑問だ。経営の成功者は、何れも即断即決し、成功したように喧伝されているが、人間の意志決定はそんなに単純なものではない。血の出るような呻吟の中から、失敗を乗り越えて、たまたま成功したに過ぎない。

 一発で成功する人もいるが、殆どは、直ぐにその実力のなさが現れ、晩節を穢すようなことをして潰れていく。世間を冷静に見るとわかる。
 知っている限りでも、マスコミに取り上げられた「虚」と実体の間には、かなり開きがある。はっきり言うと、殆どが「盛られて」いたり「事実と反対」なことも、「本当」になってしまう。
コンサルタントという黒子として多くの事実の嘘を知っているが、立場上、暴露は出来ない。

 

 様々な情報が怒濤の如く溢れているようだが、その情報の確度は、誠に頼りない。出所も不明、やらせの情報も蔓延している。「カス情報」が殆どだ。このような歪なブラックボックスの中から、どうやって正しい「情報」を吸い上げるのかは、自分自身の中に、不確定要素を選り分ける「ふるい」を持たなければならない。それが拙著「言挙げぞする」の現在的な上梓の目的だと思っている。
 この本の存在価値は今は評価されなくても、何れわかると信じている。宗教観の誤謬によって、日本の歴史観は大きく歪められた。明治時代から始まり、戦前の昭和に至る「国家神道」がその顕著の例である。その誤謬は今も修正されていないし、それを批判する方々も、依って立つ根幹を勉強していないから、感情的な批判に陥ったままだ。旧弊に安閑として、学ぶことを放棄した方々には、拙著は異端と映るにちがいない。

 

 実社会で体得する直感や経験則は、安穏に生きるための摩擦の少ない生き方であった。だから、何も今さら事を荒立てなくともいいという日本人は多い。しかし、そうは済まされない時代になった。まして、正しい直感や経験則を醸成する機会も与えられず、歪んだブラックボックスをそのままに、盲信して生きているほど危険なことはない。
 思考の物差しが正しく弾力的であれば、直感が導きやすい誤謬を修正することが出来る。それが学ぶということである。学ぶことは、歪んだブラックボックスをできるだけ小さくして、情報の確度を上げることである。稲荷ずしも、青果店のリンゴも、美味しく安全が担保されているのは、ブラックボックスがない(あるいは小さい)からだ。

                                  

 「ブラックボックス」とは、直訳すれば「黒い箱」。中がどうなっているか分からないモノやコトをいう。単に見ることができない、知ることができないというだけでなく、見てはまずい、手出しをしてはいけないモノやコトに対して言うこともある。
 勝手に作りだした「マスコミの自主規制」や、「安倍忖度」などはこれである。
 また、市販ソフトもその多くがプログラムの元データ(ソースコード)を公開していない。そのため、ソフトに不具合があっても利用者は対処できない。我々の年金資金の運用なども、制御不能な金融市場でなされている。リスクに対し、リスクヘッジ(危険回避)する手法が開発されたが、2008年のリーマンショックのような予想を大きく超える経済危機にはヘッジ機能が働かず、限界がある。中国のバブル崩壊アメリカの金融危機の芽は常に存在する。膨らみすぎて制御不能になっている世界の金融市場は、日本の年金システムごと崩壊してしまう危険性も孕んでいる。我々はこうした危うい「ブラックボックス」に囲まれて生きている。
 というわけで原材料から仕入れルートまで、日常の食材は、はっきり判るものを口に入れ、暫し生きているささやかな幸せを味わいたい。出所不明の高価なブランド食材などは問題外だ。
リンゴを囓りながら、自分自身の寄って立つ物差しとは何かと考える余裕を持つべきだと思う。

 拙著「言挙げぞする」はそのほんの入り口だと思っている。
                               2018.6.20 春吉省吾

春吉省吾「言挙げぞする」発売後の執筆活動 VOL.42

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  5月31日で、退院してからちょうど3ヶ月になりました。薬物療法も終了し、体力の回復に、1日7千歩から8千歩、早足で歩いています。途中、公園にあるジャングルジムを使って、柔軟体操をし、居合の立ち技のシャドー稽古(こういう言葉が有るのかな? 要は、刀や木刀を持たない体配です)を始めました。公園に来ている保育児や散歩している方々は、怪訝な顔をして通り過ぎます。先週の金曜日、半年ぶりであるパーティーに参加しましたが、酒も断っているし、立食でしたので、早々に失礼してきました。立ちっぱなしは、まだ結構辛いです。

 拙著「言挙げぞする」も発売から2週間を過ぎました。テーマはかなり高度で、初めて目にされた事項も多いと思います。私の主張をご理解いただい読者諸兄は、確かな読書力・理解力・柔らかな頭脳をお持ちと推察いたします。内容は多面に亘っていますが、本来あるべき「歴史観」「宗教観」を認識するための書として、私自身は強い信念を持ち、記述しました。お読み頂いた方々の、忌憚のない意見もお聞かせください。


 文字校正と言葉の言い回し、冊子全体の整合性など、何から何まで、全て一人で短期間に完璧にチェックし遂げるのは、どんな天才でも無理とわかっています。けれど毎回懲りずに
「ああすればよかった、こう書けばよかった。こんなところに誤字があった……」
と本になった後、猛烈に悔やみます。この屈辱感は半端ではないのです。後処理を全て、校閲者や、編集者に頼っている作家にはこの感覚は、わからないでしょう。しかし活字になってしまった作品は、私の手元から離れてしまうので、いくら悔やんでも再版時にしか直せません。そんなわけで、上梓後はその「悪夢」は全て振り切って忘れることに努めます。


 何年もかかって作品を上梓したのですから10日ぐらいはリフレッシュするのが普通でしょうが、私の場合はそうはいきません。販促活動や流通への配本、梱包などの力仕事が待っています。必要に迫られてこうしていますが、こんな物書きは「世界で私一人」と自負しています。
また「悪夢」を払拭するために、次の作品の執筆を猛烈に始めます。ところがエンジン全開には、時間がかかります。大分呻吟します。


 長編歴史小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」(あきのとおね)は、病気をした事もあって、予定が遅れていますが、ようやく前半を終えて後半執筆中です。ここまでよく辿り着いたという感じです。遙か筑後三池と奧州下手渡(しもてど)に分割されたことで、郷土史家達の記述に、ブレがあります。これが実に厄介です。私が正しいと思った歴史的日時に基づいて、仕上げることにしました。
主人公の一人、吉村春明は比較的描きやすいのですが、藩主、立花種恭(たねゆき)の人物描写が難しい。ひと言で言うと自己の意志を決して表に出さない人物です。出来過ぎて、あまり面白くない人物です。執筆前にある程度、予測していましたので、物語は、蟄居謹慎となり、三池藩を取り潰された藩主、立花種周(たねちか)の時代から始まります。下手渡に移封になり、その嫡子初代下手渡藩藩主種善(たねよし)以下、家臣達が踏ん張る姿を描きます。
 一万石の弱小大名が、生き残るためにどうするか、これがテーマです。
 個性の強い貧乏御家人勝海舟などとは対岸の行き方をした種恭ですが、その性格を、物語にきっちり反映できたら、物語は大成功です。不思議なことに、種恭と海舟は立場上非常に近いところにいたのですが、互いの日記にも、談話も、全く無視し合って、ひと言も語っていません。面白いですね。
昨年9月に講演会を行った下手渡の方々への恩返しのためにも何とか仕上げないと……。

 

 「秋の遠音」の執筆がなかなか難しく、その反動は、中編の「初音の裏殿」(はつねのうらとの)の連作小説のフレームワークを作るバネになっています。この主人公は、幕末期、破天荒な行動をし、手段を選ばず、善悪を超越している旗本です。架空の主人公ですが、皇室と幕府と因縁のある人物設定なので、天皇家や公家の資料も集め、読み込んでいます。大きなスケールで描きます。幕末の様々な人物の裏の顔も明らかになるでしょう。仕上げる前からわくわくしています。


 福島県伊達郡国見町に「阿津賀志山」(あつかしやま)という小山があります。この地は「吾妻鏡」(あづまかがみ)に記載されていますが、源頼朝が陣をはって奥州藤原氏と戦った、中世最大の古戦場跡です。今は、殆ど面影はないものの、忘れられては困る場所です。2年前、猛暑の8月13日に、国見町の大栗さんに案内してもらいました。その日は休日でしたが、太田町長さんにも観月台文化センターでお目にかかってきました。
以来、2年弱、鎌倉幕府の権力争いや、奥州藤原一族のことを調べました。そして、ようやくストーリーの大筋を纏めました。小編になると思います。「面を打つ女」(おもてをうつおんな)というタイトルに決定しました。奧州合戦という鎌倉幕府と奥州平泉の覇権争いの間(はざま)で生きた、一人の女性の行動と深層心理を描きます。1年ほどかけて仕上げます。悲しい物語です。


 それから福島町(現在の福島市)の明治・大正・昭和初期に活躍した数奇な政治家、鐸木三郎兵衛(すずきさぶろべえ)の「空の如く」(うつおのごとく)の執筆は現在止まっています。他に、悲劇の二本松少年隊の生き残りに焦点を当てた「筋違い紋の誇り」(すじかいもんのほこり)も、構想ノートと資料は手許にありますが書き出していません。  私の中の気持が自然と昂じてくるのを俟っています。
思うに、歴史作家の創作意欲は、その舞台になる地元の方々、行政やその長をはじめ、郷土史家の方々の協力と熱意があるとないとでは、大きく違います。それはその地の「民力・文化」の差ということでもあります。これまで世間に殆ど知られていないテーマを「小説」にするのは、想像以上に困難で、それらの方々の協力は必須です。よろしくご協力をお願いします。

 

 ああ、それにしても、やること一杯!!  一人で全てやるには、殆ど不可能な仕事量です。資料を整理してくれるアシスタントの方を募集しています!!        

2018.6.1  春吉省吾

●一週間前から「あじさい」が満開。●「がくあじさい」5.30 ●「しゃくなげ」と思っていたのですが「ちょうちくとう」でした。結構強い毒性があるようです。5.30

生きる不安を増幅させないための処方箋VOL.41

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2018.5.15。アマゾン「エッセイ・随筆」のジャンルの「おすすめ順」の表記より。
タレントの代筆者の書く、エッセー・随筆本が多い中、「言挙げぞする」のような硬派な随筆は、なかなか売れないと思う。この手の本の読者がもっと増えれば、日本も捨てたものではないのだが……。

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紀伊國屋」のネットショップにもアップされました。5.13。

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セブンネットショッピングにも「言挙げぞする」が販売開始。以下、春吉省吾の長編時代小説がラインナッフ。5.12。

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新宿中央公園から見る都庁
丹下健三氏(構造設計は武藤清氏)の設計、1991年4月に丸の内から移転した。東京のシンボルとはなり得たが、使い勝手は悪そうだ。2006年に、雨漏りの補修に約1,000億円が必要と日本経済新聞の記事にあった。特殊なデザインのため、一般的な補修方法では対応できないという。次世代の設計者は、建物維持コストも予測して、「はじめて設計のプロである」という自覚を持ってもらいたいものだ。2018.5.6

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新宿中央公園」今年は開園50周年だという。
新宿の中心に、緑豊かな公園があるというのはいいものだ。

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連休最後の5月6日、西新宿にかかる、歩道橋から青梅街道を望む。
道路の混雑は全く見られなかった。

 

 「言挙げぞする」の一般発売は5月12日、アマゾンは20日の予定だったか、流通の手配で早くなった。5月10日には、アマゾンも、7ネットも、紀伊國屋書店、ヤフー、楽天なども販売を始めた。
 これまで私の書いてきた小説は、一般的な「長編」よりもさらに長い。一気に読むには気力と、読書力が要る。(これまである意図を持ってそうしてきたが、今年から「中編」執筆も始める)
今回の随筆「言挙げぞする」は、冊子の厚さから言えば、中編で、難しい言葉はあまり使っていないが、日本人のあるべき「歴史観」「宗教観」を認識してもらうには、仏教語(禅語)、神道用語、大和言葉など、最低限の言葉の説明は避けて通れない。というわけで、読者の方々に聞き慣れない言葉があると思うが、暫しおつきあいいただきたい。
 人は生まれて、生き、どのように死んでいくのか、そして死後は……、自分自身と向き合ったとき、「生死観」を定める物差しを持たず、私の一生は何だったんだと、じたばた悔やんでも、取りかえしがつかない。
そうならないために、「生きる根本」を知り、そこから派生した「生きるための技」を使う必要がある。

 人が病気になったとき、対症療法と根本療法の2つがある。
対症療法とは、疾病の原因に対してではなく、主要な症状を軽減するための治療を行う。例えば風邪をひいた時に、咽頭痛に対して鎮痛薬、発熱に対して解熱薬、咳に対して鎮咳薬を服用する。
 一方、症状の原因そのものを制御する治療法を根本療法、あるいは原因療法という。病気の原因となっている外部環境や体内に侵入した異物を取り除き、自然治癒力の助けにより、本来の正常な状態に戻すための医療である。
 こう書くと、対症療法と根本療法は対置される療法と思われがちだが、この両者はあくまで相対的かつ補完的なものである。
 アトピー性皮膚炎では、根本原因である免疫の異常に対する原因療法は未だ確立されていない。従ってステロイド外用薬や抗ヒスタミン薬により炎症を抑える対症療法が行われる。これにより湿疹→痒み→掻きむしり→湿疹という悪循環を断つことができるため、症状を抑えることが部分的には根本療法にもなっている。私の経験からもそうである。
 同じように癌の三大療法として「手術・抗癌剤放射線」療法がある。早期発見で癌組織を完全に取り切ることが生死を分けるが、同時に自己治癒力をしっかりと高めておかないと、再発率のリスクは高いままである。つまり自己治癒力を高めるために、根本療法として「生き方そのものを変える」ことが必須である。
 「生きる根本」と「生きる技」を上手に使い分け、使いこなしをすることと、病気への対応の仕方は同じということがわかる。しかしそうはいうものの、生活習慣を是正することは難しく、それこそ日々の地道な努力を要する。
 「言挙げぞする」という随筆本は、既成概念や、誤った慣習の認識を是正してもらおうと纏めたものだが、わが身の生活を顧みれば、大分偏った無茶な生活をしている。日常生活が即「生死観」に繋がるのだから、第一に猛省しなければならないのは、私自身なのだが……。                               2018.5.17   春吉省吾

 

 

「言挙げぞ(我が)する」という知的バトルVOL.40

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私の手元に届いた新刊「言挙げぞする」

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山手通り・上原近辺、躑躅がきれいだ。

日本最大の回教寺院(モスク)、東京ジャーミイf:id:haruyoshi01:20180501222157j:plain

日本最大の回教寺院(モスク)、東京ジャーミイ

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東京消防学校の訓練風景。チームワークの妙。

 

 「言挙げぞする」の冊子が、私の手元に届いた。独りで執筆、装幀・デザインした冊子を自分で誉めるのは手前味噌だが、ご苦労様と言いたい。
 内容は、かなり踏み込んで書き上げているが、学術論文ではないので、そう難しくは記載していない。かといって、簡単に書きすぎると誤解を生む。というわけで、硬軟取り混ぜて仕上げてある。
 特に、宗教観のあるべき姿を認知して貰うのは難しい。最初は、読み飛ばしていただいて構わない。何しろ、神道儒教道教などは、誤った認識が一般「常識」になっている。従って、初読は「そんなことは誰からも聞いていない」と拒否反応を起こすはずである。無名の物書きが偉そうなことを言うなという反発もある。それが当然だと思う。頭がパニックになるかも知れない。    「言挙げぞする」の内容はある種のカンフル剤のようなものだが、こけおどしでない証拠に、読み直していただくと、既存の「常識」は誤りだと知ることになる。じっくりと筆者との知的バトルを楽しんで欲しい。

 

 平成元年(1989年)に入会した「同根会」という経営研究会で、私は、伊藤くみ子先生という不思議な雰囲気を漂わせた「お婆さん」と出会った。会の特別顧問のような立場で、私が入会当時、伊藤先生は78歳だったと思う。詳しくは、拙著の「むすんでひらいて」の章に譲るが、この時初めて「古神道」という言葉を聞いた。
 伊藤先生は全くの独学で、神道的な言葉を用いながら「命の構造」の理論を作り上げたのだが、その先生の言葉にこうある。
神道というと、日本人は十分な認識がないにもかかわらず、勝手な固定観念に捕らわれている。だから私が色々言うと、左翼からも右翼からも、新興宗教の団体からも睨まれて、なかなか大変なのですよ」と言って日本人の誤認識を笑い飛ばしたのが印象的であった。
 思うに、考古学の分野も科学の進歩により、縄文時代は今から1万6000年前というのが主流になりつつある。従来よりも3千年も古いという認識だ。「神道」の成り立ちも、日本独自の思想であるという考えは誤りで、縄文の基層精神をもとに中国の道教思想を引用したものだ。
 思えば、仏教も、儒教も日本流にアレンジされて、それが一人歩きして現在に至った。既存の学者や宗教者はそれを知りつつ、従来の認識を変える事はない。ならば、その「源」と彼等の寄って立つ立場と比較してその正当性・必然性を示すことが、知的指導者としては当たり前の責務であろう。しかし、いまだに無いが……。
 拙著で記載したマスコミの「自主規制」も、その根拠は曖昧で、詰まるところ組織の自己保身である。大宅壮一の言葉ではないが「一億総白痴化」した国民の、つまらない批判と係わるよりは穏便に、というわけだ。また、財務省をはじめ国家中枢の頭脳集団の不祥事は、戦前の陸海軍の幹部達と何ら変わらない「頭でっかち」な独善的組織であることを露呈させた。
 「言挙げぞする」で指摘した様々な事象は、本来、私のような浅学な物書きの書くことではない。右からも左からも宗教団体や、お偉い学者先生、個癖に凝り固まった方々からも、マスコミからも、恨みは買いたくないのだが、書いてしまったのだからしょうがない。
 拙著が、日本人として正しい「歴史観」「宗教観」を持ち、ひいては、いかに生ききるかという、生死観をじっくりと考える、一助になれば、嬉しい限りだ。

アマゾンへは5月20日発売でアップいたしました。
                          2018.4.28   春吉省吾