春吉省吾のブログ

物書き・春吉省吾のブログです。マスメディアに抗い、大手出版社のダブスタに辟易して一人出版社を営んでいます。おそらく、いや、世界で最もユニークな出版社だと自負しています。

春吉省吾 急に思い立って VOL.43

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●代々木八幡、恒例の「茅の輪くぐり」がはじまった。2018.6.19

●お稲荷さんの販売店。ここの通りがオペラ通りというらしいが、陳腐な名前だ。

 

 長編歴史小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」を本気で執筆しはじめたある日、調子に乗りすぎて、朝まで作業をしてしまった。
 通常、夜7時に食事をして、以降は何時になろうと、コーヒーとお茶と水しか摂らない。
 その朝、猛烈に「稲荷ずし」を食べたくなった。それも、デパートの有名ブランドではなく、コンビニのものでもなく(大手コンビニ3社の稲荷ずしは、それぞれに特徴があり、種類もあってコスパは良い)、頬張ると甘く濃い出汁が垂れてくるような「稲荷ずし」を食べたい!!
 昼前に、京王新線初台駅新国立劇場横の近くの蒟蒻屋さんにいって、稲荷ずしとピリ辛蒟蒻を買った。併せて540円。
その帰り道、リンゴか食べたくなった。スーパーに売っている時期外れのリンゴを買ったことがあるが、昨年の冷蔵りんごの売れ残りで、品質も味も最悪だった。
 近くの青果店の店頭に、リンゴは出ていない。何時も店頭に出ているときにしか買ったことがなかったが、おばさんに聞いてみた。
「リンゴはないよね」
「旬じゃないからね。だけど、冷蔵してあるリンゴはあるよ。きっちり温度管理しているから、旬じゃないけど美味いと思う」
2個400円で購入。稲荷ずしも、リンゴも美味かった。
一見何気ない「専門店」の長年の経験と商品の品質管理に唸った。専門店の安心は、生産者や販売者の顔がきちっと見えることだ。私の購買エリアは、渋谷区の西原、幡ヶ谷、初台、笹塚辺りだが、住み始めた33年前と比べると、個人商店の「専門店」は今や数えるほどしかなくなってしまった。昔を懐かしむノスタルジーはあるが、商品の仕入、流通のシステムが激変してしまった現在、消費者としては、出来うる限り頑張ってと思いつつ、近くの「専門店」を利用する。残念ながらそれ以上、何もできない。

 

 時代の流れは、加速度が付いたように速くなっている。それに伴って、早い決断、果敢な行動を殊更求められているようだが、はたしてどれ程上手くいっているか疑問だ。経営の成功者は、何れも即断即決し、成功したように喧伝されているが、人間の意志決定はそんなに単純なものではない。血の出るような呻吟の中から、失敗を乗り越えて、たまたま成功したに過ぎない。

 一発で成功する人もいるが、殆どは、直ぐにその実力のなさが現れ、晩節を穢すようなことをして潰れていく。世間を冷静に見るとわかる。
 知っている限りでも、マスコミに取り上げられた「虚」と実体の間には、かなり開きがある。はっきり言うと、殆どが「盛られて」いたり「事実と反対」なことも、「本当」になってしまう。
コンサルタントという黒子として多くの事実の嘘を知っているが、立場上、暴露は出来ない。

 

 様々な情報が怒濤の如く溢れているようだが、その情報の確度は、誠に頼りない。出所も不明、やらせの情報も蔓延している。「カス情報」が殆どだ。このような歪なブラックボックスの中から、どうやって正しい「情報」を吸い上げるのかは、自分自身の中に、不確定要素を選り分ける「ふるい」を持たなければならない。それが拙著「言挙げぞする」の現在的な上梓の目的だと思っている。
 この本の存在価値は今は評価されなくても、何れわかると信じている。宗教観の誤謬によって、日本の歴史観は大きく歪められた。明治時代から始まり、戦前の昭和に至る「国家神道」がその顕著の例である。その誤謬は今も修正されていないし、それを批判する方々も、依って立つ根幹を勉強していないから、感情的な批判に陥ったままだ。旧弊に安閑として、学ぶことを放棄した方々には、拙著は異端と映るにちがいない。

 

 実社会で体得する直感や経験則は、安穏に生きるための摩擦の少ない生き方であった。だから、何も今さら事を荒立てなくともいいという日本人は多い。しかし、そうは済まされない時代になった。まして、正しい直感や経験則を醸成する機会も与えられず、歪んだブラックボックスをそのままに、盲信して生きているほど危険なことはない。
 思考の物差しが正しく弾力的であれば、直感が導きやすい誤謬を修正することが出来る。それが学ぶということである。学ぶことは、歪んだブラックボックスをできるだけ小さくして、情報の確度を上げることである。稲荷ずしも、青果店のリンゴも、美味しく安全が担保されているのは、ブラックボックスがない(あるいは小さい)からだ。

                                  

 「ブラックボックス」とは、直訳すれば「黒い箱」。中がどうなっているか分からないモノやコトをいう。単に見ることができない、知ることができないというだけでなく、見てはまずい、手出しをしてはいけないモノやコトに対して言うこともある。
 勝手に作りだした「マスコミの自主規制」や、「安倍忖度」などはこれである。
 また、市販ソフトもその多くがプログラムの元データ(ソースコード)を公開していない。そのため、ソフトに不具合があっても利用者は対処できない。我々の年金資金の運用なども、制御不能な金融市場でなされている。リスクに対し、リスクヘッジ(危険回避)する手法が開発されたが、2008年のリーマンショックのような予想を大きく超える経済危機にはヘッジ機能が働かず、限界がある。中国のバブル崩壊アメリカの金融危機の芽は常に存在する。膨らみすぎて制御不能になっている世界の金融市場は、日本の年金システムごと崩壊してしまう危険性も孕んでいる。我々はこうした危うい「ブラックボックス」に囲まれて生きている。
 というわけで原材料から仕入れルートまで、日常の食材は、はっきり判るものを口に入れ、暫し生きているささやかな幸せを味わいたい。出所不明の高価なブランド食材などは問題外だ。
リンゴを囓りながら、自分自身の寄って立つ物差しとは何かと考える余裕を持つべきだと思う。

 拙著「言挙げぞする」はそのほんの入り口だと思っている。
                               2018.6.20 春吉省吾