春吉省吾のブログ

物書き・春吉省吾のブログです。マスメディアに抗い、大手出版社のダブスタに辟易して一人出版社を営んでいます。おそらく、いや、世界で最もユニークな出版社だと自負しています。

「秋の遠音」と「初音の裏殿」 VOL.47

 

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写真の説明

●谷中の墓地への入り口の一つ
●谷中のお寺「天王寺
享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わい、広大な敷地を持っていました。上野戊辰戦争では、彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失した。

●谷中の墓地の近くをロケーションしたのは、この近くに「初音の裏殿」の隠れ家の場所を設定するためです。
●谷中の墓地は、有名な人物が多く眠っていますが、最初に目に付いた墓が、何と「高橋お伝」の墓でした。
稀代の毒婦と言われた女です。ご興味があれば、ネットで調べて下さい。
 かと思うと、実直そのものの「日本植物学の父」といわれた、牧野富太郎博士のお墓もあります。谷中の墓地はお墓マニアにはこたえられない場所でしょうね。
鶯谷駅下の交差点近くのレストランに何気なく入ったが、ここのビーフシチューが美味かった。有名店でないところに入って、そういう出会いがあると、実に得した感じになる。

●友人のグループ展示会を拝見するために、久しぶりに銀座へ。一年半ぶりの銀座は、すっかりかわってしまった。もともとの田舎者が、更に田舎者になったようだ。
 昼食を、同伴した友人に御馳走になったが、どの店も賑わっていた。日本はお金持ちの国なのだなあと、つくづくおもう。
●右は「對間新吉画伯」の3作品。

 

 私事ですが、お陰様で病気も快癒し、現在体力増強をはかりつつ、長編時代小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」を鋭意執筆しています。

 物語の後半、「大牟田弁(正確には三池地方の言葉)」を使う人物が登場します。大牟田出身の作家の作品や、方言集やCDなどを参考にして、「会話」を書き進めています。しかし江戸期の方言は、現在では正しく検証することは不可能に近く、そこにあまり拘ると小説が成り立たなくなってしまいます。
 妥協点をどこにおいて記述するかという判断も大切です。

 今から7年前のこと、四季四部作の最初の作品「冬の櫻」をお読みいただいた読者の一人から、
 「何十年も会津に住んでいるが、先生の作中の会津弁は、違うのではないか」
 という指摘を受けました。しっかり読んでいただいている証拠だと思ったものです。
 実は、初代会津藩主の保科正之公の時代は、信濃高遠3万石から、出羽山形20万石を経て、陸奥会津23万石と、石高が急増して、前領地の武士を雇い入れないと藩政が出来なくなる事態になりました。異母兄の三代将軍家光の信頼を得て急成長したからです。  
 当然、地縁(言葉の違い)などによって、姻戚もグループ内で行われ、派閥が形成されます。
 「初代正之公の時代は、会津武士といわれる一枚岩のものではありません。私の小説に出て来る会津言葉は、出羽山形を出自とするグループと、地元百姓衆の使う2種類を使い分けていますが、現在使われている会津弁とは大分違うはずです」
 と説明し、納得いただきました。江戸期の方言表記は、時代、身分の違いなどによって大きく変わってきますので、実に難しいです。

 さて、「秋の遠音」は1万石の奧州下手渡藩・三池藩の物語です。下手渡藩については、地元の方もどういう理由でこの藩が成立したのかあまりご存じないようですし、現在の大牟田市から見れば、「下手渡」という言葉も「?」ということでしょう。
 昨年、前の仁志田昇司伊達市長が、下手渡で開催された私の講演会にお見えになり、
 「この小説が出来あがり、その縁で、伊逹市と大牟田市の交流が、一層盛り上がるといい」
 と仰有っておられましたが、上梓したあかつきには、須田博行新市長にも、両市発展・交流の起爆剤として拙著を役立てて頂ければありがたいです。
 物語は、11代将軍家斉、寛政の改革で知られる松平定信の時代からはじまります。
 弱小一万石の三池藩藩主立花種周は、政争に巻き込まれ、突然の蟄居の後、嫡子種善は奧州下手渡に移封されます。「下手渡藩」は現在の福島県伊達市月舘町を中心とし、川俣、飯野、霊山にまたがる小さな領地です。筑後三池と、奧州下手渡とはおよそ370里も隔たり、気候も風習も言葉も違います。
  時代は下って幕末。嘉永4年(1851年)、下手渡藩一万石の内、3078石を返上し、旧領地5ヶ村の5071石の藩地替えとなります。主人公の吉村土肥助(春明)が先発として、三池に赴任します。三代下手渡藩主は、当時数え16歳の立花種恭(たねゆき)です。
 石炭採掘で財をなした塚本源吾と深く交わった土肥助は、のちに禁門の変に敗れた真木和泉の影響を強く受け、尊皇攘夷思想に染まっていきます。しかし、土肥助は志を折って、藩主種恭の側に仕えることになります。やがて種恭は、三池炭鉱の増産により、資金を得て、若年寄に出世します。その後種恭は、幕府要職を次々と務め、将軍慶喜の時、ほんの数ヶ月でしたが、老中格にまで進みます。
 種恭は十四代将軍家茂、前述の十五代将軍慶喜小笠原長行、松本良順の縁から新選組近藤勇土方歳三小栗忠順などとかかわります。
 一方、土肥助は、三池と下手渡を何度となく往復する旅の途中で、旅籠を同じくする坂本龍馬とも顔見知りになります。
 また、土肥助と朋友である奧州下手渡藩を守る国家老の屋山外記は、やむを得ず奧州越列藩同盟に参加します。そうしなければ、仙台・米沢・二本松・相馬などの大きな藩に忽ち潰されてしまいます。三池は早くから勤皇になり、下手渡は佐幕の一員となり、藩は真っ二つとなります。
 弱小藩故に、 時勢を読まないと、藩そのものが忽ち危機に陥ります。藩主は勿論、家臣と家族、領民にとってどうすれば最善の策なのか、それぞれに悩み考え乍ら、遂に激動の幕末、明治維新を迎えます。

 原稿用紙2000枚以上に及ぶ、四季四部作の「長編時代小説」シリーズはこれでようやく完結します。各作品は、時代も背景も違いますが、季節の「春・夏・秋・冬」のそれぞれに深い意味を持たせたつもりです。これら「超長編」が読者にとって、人生のスパイスとなり、楽しんでいただければ嬉しい限りです。
 これまで私は、小編や中編を書かずに、頑なに「超長編」に拘りました。その主たる動機は、高齢になってから長編を書いた著名な作家先生方の作品の多くは、ストーリーが単調で、陰鬱で、説教調に陥る作品が多いのです。超長編を書く気力が喪失してしまうからでしょう。
 そうならないように、私は、長編はむしろ最初に書くべきだという強い執筆意志を持ち、ここまで実践してきました。次作からは、中編、小編が主となります。
 私の次のライフワークは幕末期の 「初音の裏殿」という架空のアウトローの中編物語です。

 主人公に「からみ合う人物」が毎回変わる15から20篇程のシリーズ物です。判りやすく言うと、吉村昭先生のような正確な史実を土台にし、池波正太郎先生の「鬼平犯科帳」「剣客商売」、「仕掛人・藤枝梅安」などの大衆小説のエキスを採り入れ、疾風怒濤の幕末を、主人公が躍動します。
 これまで幕末の英雄と思われていた人物が「敵役」になるかもしれません。面白い作品作りの予感に、闘志がふつふつと湧き上がる反面、半端な苦労では済まないと腹を括っています。
 長崎、佐賀、大阪、京都、三河、江戸と日本のみに留まらず、琉球、香港までも舞台として、幕閣、尊攘家、豪商、皇族公家を含め、あらゆる階層の人間模様を描く物語になります。今から「お国言葉や公家言葉」に悩まされるに違いないと覚悟しています。お楽しみに。春吉省吾ⓒ