春吉省吾のブログ

物書き・春吉省吾のブログです。マスメディアに抗い、大手出版社のダブスタに辟易して一人出版社を営んでいます。おそらく、いや、世界で最もユニークな出版社だと自負しています。

春吉省吾「言挙げぞする」発売後の執筆活動 VOL.42

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  5月31日で、退院してからちょうど3ヶ月になりました。薬物療法も終了し、体力の回復に、1日7千歩から8千歩、早足で歩いています。途中、公園にあるジャングルジムを使って、柔軟体操をし、居合の立ち技のシャドー稽古(こういう言葉が有るのかな? 要は、刀や木刀を持たない体配です)を始めました。公園に来ている保育児や散歩している方々は、怪訝な顔をして通り過ぎます。先週の金曜日、半年ぶりであるパーティーに参加しましたが、酒も断っているし、立食でしたので、早々に失礼してきました。立ちっぱなしは、まだ結構辛いです。

 拙著「言挙げぞする」も発売から2週間を過ぎました。テーマはかなり高度で、初めて目にされた事項も多いと思います。私の主張をご理解いただい読者諸兄は、確かな読書力・理解力・柔らかな頭脳をお持ちと推察いたします。内容は多面に亘っていますが、本来あるべき「歴史観」「宗教観」を認識するための書として、私自身は強い信念を持ち、記述しました。お読み頂いた方々の、忌憚のない意見もお聞かせください。


 文字校正と言葉の言い回し、冊子全体の整合性など、何から何まで、全て一人で短期間に完璧にチェックし遂げるのは、どんな天才でも無理とわかっています。けれど毎回懲りずに
「ああすればよかった、こう書けばよかった。こんなところに誤字があった……」
と本になった後、猛烈に悔やみます。この屈辱感は半端ではないのです。後処理を全て、校閲者や、編集者に頼っている作家にはこの感覚は、わからないでしょう。しかし活字になってしまった作品は、私の手元から離れてしまうので、いくら悔やんでも再版時にしか直せません。そんなわけで、上梓後はその「悪夢」は全て振り切って忘れることに努めます。


 何年もかかって作品を上梓したのですから10日ぐらいはリフレッシュするのが普通でしょうが、私の場合はそうはいきません。販促活動や流通への配本、梱包などの力仕事が待っています。必要に迫られてこうしていますが、こんな物書きは「世界で私一人」と自負しています。
また「悪夢」を払拭するために、次の作品の執筆を猛烈に始めます。ところがエンジン全開には、時間がかかります。大分呻吟します。


 長編歴史小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」(あきのとおね)は、病気をした事もあって、予定が遅れていますが、ようやく前半を終えて後半執筆中です。ここまでよく辿り着いたという感じです。遙か筑後三池と奧州下手渡(しもてど)に分割されたことで、郷土史家達の記述に、ブレがあります。これが実に厄介です。私が正しいと思った歴史的日時に基づいて、仕上げることにしました。
主人公の一人、吉村春明は比較的描きやすいのですが、藩主、立花種恭(たねゆき)の人物描写が難しい。ひと言で言うと自己の意志を決して表に出さない人物です。出来過ぎて、あまり面白くない人物です。執筆前にある程度、予測していましたので、物語は、蟄居謹慎となり、三池藩を取り潰された藩主、立花種周(たねちか)の時代から始まります。下手渡に移封になり、その嫡子初代下手渡藩藩主種善(たねよし)以下、家臣達が踏ん張る姿を描きます。
 一万石の弱小大名が、生き残るためにどうするか、これがテーマです。
 個性の強い貧乏御家人勝海舟などとは対岸の行き方をした種恭ですが、その性格を、物語にきっちり反映できたら、物語は大成功です。不思議なことに、種恭と海舟は立場上非常に近いところにいたのですが、互いの日記にも、談話も、全く無視し合って、ひと言も語っていません。面白いですね。
昨年9月に講演会を行った下手渡の方々への恩返しのためにも何とか仕上げないと……。

 

 「秋の遠音」の執筆がなかなか難しく、その反動は、中編の「初音の裏殿」(はつねのうらとの)の連作小説のフレームワークを作るバネになっています。この主人公は、幕末期、破天荒な行動をし、手段を選ばず、善悪を超越している旗本です。架空の主人公ですが、皇室と幕府と因縁のある人物設定なので、天皇家や公家の資料も集め、読み込んでいます。大きなスケールで描きます。幕末の様々な人物の裏の顔も明らかになるでしょう。仕上げる前からわくわくしています。


 福島県伊達郡国見町に「阿津賀志山」(あつかしやま)という小山があります。この地は「吾妻鏡」(あづまかがみ)に記載されていますが、源頼朝が陣をはって奥州藤原氏と戦った、中世最大の古戦場跡です。今は、殆ど面影はないものの、忘れられては困る場所です。2年前、猛暑の8月13日に、国見町の大栗さんに案内してもらいました。その日は休日でしたが、太田町長さんにも観月台文化センターでお目にかかってきました。
以来、2年弱、鎌倉幕府の権力争いや、奥州藤原一族のことを調べました。そして、ようやくストーリーの大筋を纏めました。小編になると思います。「面を打つ女」(おもてをうつおんな)というタイトルに決定しました。奧州合戦という鎌倉幕府と奥州平泉の覇権争いの間(はざま)で生きた、一人の女性の行動と深層心理を描きます。1年ほどかけて仕上げます。悲しい物語です。


 それから福島町(現在の福島市)の明治・大正・昭和初期に活躍した数奇な政治家、鐸木三郎兵衛(すずきさぶろべえ)の「空の如く」(うつおのごとく)の執筆は現在止まっています。他に、悲劇の二本松少年隊の生き残りに焦点を当てた「筋違い紋の誇り」(すじかいもんのほこり)も、構想ノートと資料は手許にありますが書き出していません。  私の中の気持が自然と昂じてくるのを俟っています。
思うに、歴史作家の創作意欲は、その舞台になる地元の方々、行政やその長をはじめ、郷土史家の方々の協力と熱意があるとないとでは、大きく違います。それはその地の「民力・文化」の差ということでもあります。これまで世間に殆ど知られていないテーマを「小説」にするのは、想像以上に困難で、それらの方々の協力は必須です。よろしくご協力をお願いします。

 

 ああ、それにしても、やること一杯!!  一人で全てやるには、殆ど不可能な仕事量です。資料を整理してくれるアシスタントの方を募集しています!!        

2018.6.1  春吉省吾

●一週間前から「あじさい」が満開。●「がくあじさい」5.30 ●「しゃくなげ」と思っていたのですが「ちょうちくとう」でした。結構強い毒性があるようです。5.30

生きる不安を増幅させないための処方箋VOL.41

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2018.5.15。アマゾン「エッセイ・随筆」のジャンルの「おすすめ順」の表記より。
タレントの代筆者の書く、エッセー・随筆本が多い中、「言挙げぞする」のような硬派な随筆は、なかなか売れないと思う。この手の本の読者がもっと増えれば、日本も捨てたものではないのだが……。

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紀伊國屋」のネットショップにもアップされました。5.13。

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セブンネットショッピングにも「言挙げぞする」が販売開始。以下、春吉省吾の長編時代小説がラインナッフ。5.12。

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新宿中央公園から見る都庁
丹下健三氏(構造設計は武藤清氏)の設計、1991年4月に丸の内から移転した。東京のシンボルとはなり得たが、使い勝手は悪そうだ。2006年に、雨漏りの補修に約1,000億円が必要と日本経済新聞の記事にあった。特殊なデザインのため、一般的な補修方法では対応できないという。次世代の設計者は、建物維持コストも予測して、「はじめて設計のプロである」という自覚を持ってもらいたいものだ。2018.5.6

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新宿中央公園」今年は開園50周年だという。
新宿の中心に、緑豊かな公園があるというのはいいものだ。

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連休最後の5月6日、西新宿にかかる、歩道橋から青梅街道を望む。
道路の混雑は全く見られなかった。

 

 「言挙げぞする」の一般発売は5月12日、アマゾンは20日の予定だったか、流通の手配で早くなった。5月10日には、アマゾンも、7ネットも、紀伊國屋書店、ヤフー、楽天なども販売を始めた。
 これまで私の書いてきた小説は、一般的な「長編」よりもさらに長い。一気に読むには気力と、読書力が要る。(これまである意図を持ってそうしてきたが、今年から「中編」執筆も始める)
今回の随筆「言挙げぞする」は、冊子の厚さから言えば、中編で、難しい言葉はあまり使っていないが、日本人のあるべき「歴史観」「宗教観」を認識してもらうには、仏教語(禅語)、神道用語、大和言葉など、最低限の言葉の説明は避けて通れない。というわけで、読者の方々に聞き慣れない言葉があると思うが、暫しおつきあいいただきたい。
 人は生まれて、生き、どのように死んでいくのか、そして死後は……、自分自身と向き合ったとき、「生死観」を定める物差しを持たず、私の一生は何だったんだと、じたばた悔やんでも、取りかえしがつかない。
そうならないために、「生きる根本」を知り、そこから派生した「生きるための技」を使う必要がある。

 人が病気になったとき、対症療法と根本療法の2つがある。
対症療法とは、疾病の原因に対してではなく、主要な症状を軽減するための治療を行う。例えば風邪をひいた時に、咽頭痛に対して鎮痛薬、発熱に対して解熱薬、咳に対して鎮咳薬を服用する。
 一方、症状の原因そのものを制御する治療法を根本療法、あるいは原因療法という。病気の原因となっている外部環境や体内に侵入した異物を取り除き、自然治癒力の助けにより、本来の正常な状態に戻すための医療である。
 こう書くと、対症療法と根本療法は対置される療法と思われがちだが、この両者はあくまで相対的かつ補完的なものである。
 アトピー性皮膚炎では、根本原因である免疫の異常に対する原因療法は未だ確立されていない。従ってステロイド外用薬や抗ヒスタミン薬により炎症を抑える対症療法が行われる。これにより湿疹→痒み→掻きむしり→湿疹という悪循環を断つことができるため、症状を抑えることが部分的には根本療法にもなっている。私の経験からもそうである。
 同じように癌の三大療法として「手術・抗癌剤放射線」療法がある。早期発見で癌組織を完全に取り切ることが生死を分けるが、同時に自己治癒力をしっかりと高めておかないと、再発率のリスクは高いままである。つまり自己治癒力を高めるために、根本療法として「生き方そのものを変える」ことが必須である。
 「生きる根本」と「生きる技」を上手に使い分け、使いこなしをすることと、病気への対応の仕方は同じということがわかる。しかしそうはいうものの、生活習慣を是正することは難しく、それこそ日々の地道な努力を要する。
 「言挙げぞする」という随筆本は、既成概念や、誤った慣習の認識を是正してもらおうと纏めたものだが、わが身の生活を顧みれば、大分偏った無茶な生活をしている。日常生活が即「生死観」に繋がるのだから、第一に猛省しなければならないのは、私自身なのだが……。                               2018.5.17   春吉省吾

 

 

「言挙げぞ(我が)する」という知的バトルVOL.40

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私の手元に届いた新刊「言挙げぞする」

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山手通り・上原近辺、躑躅がきれいだ。

日本最大の回教寺院(モスク)、東京ジャーミイf:id:haruyoshi01:20180501222157j:plain

日本最大の回教寺院(モスク)、東京ジャーミイ

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東京消防学校の訓練風景。チームワークの妙。

 

 「言挙げぞする」の冊子が、私の手元に届いた。独りで執筆、装幀・デザインした冊子を自分で誉めるのは手前味噌だが、ご苦労様と言いたい。
 内容は、かなり踏み込んで書き上げているが、学術論文ではないので、そう難しくは記載していない。かといって、簡単に書きすぎると誤解を生む。というわけで、硬軟取り混ぜて仕上げてある。
 特に、宗教観のあるべき姿を認知して貰うのは難しい。最初は、読み飛ばしていただいて構わない。何しろ、神道儒教道教などは、誤った認識が一般「常識」になっている。従って、初読は「そんなことは誰からも聞いていない」と拒否反応を起こすはずである。無名の物書きが偉そうなことを言うなという反発もある。それが当然だと思う。頭がパニックになるかも知れない。    「言挙げぞする」の内容はある種のカンフル剤のようなものだが、こけおどしでない証拠に、読み直していただくと、既存の「常識」は誤りだと知ることになる。じっくりと筆者との知的バトルを楽しんで欲しい。

 

 平成元年(1989年)に入会した「同根会」という経営研究会で、私は、伊藤くみ子先生という不思議な雰囲気を漂わせた「お婆さん」と出会った。会の特別顧問のような立場で、私が入会当時、伊藤先生は78歳だったと思う。詳しくは、拙著の「むすんでひらいて」の章に譲るが、この時初めて「古神道」という言葉を聞いた。
 伊藤先生は全くの独学で、神道的な言葉を用いながら「命の構造」の理論を作り上げたのだが、その先生の言葉にこうある。
神道というと、日本人は十分な認識がないにもかかわらず、勝手な固定観念に捕らわれている。だから私が色々言うと、左翼からも右翼からも、新興宗教の団体からも睨まれて、なかなか大変なのですよ」と言って日本人の誤認識を笑い飛ばしたのが印象的であった。
 思うに、考古学の分野も科学の進歩により、縄文時代は今から1万6000年前というのが主流になりつつある。従来よりも3千年も古いという認識だ。「神道」の成り立ちも、日本独自の思想であるという考えは誤りで、縄文の基層精神をもとに中国の道教思想を引用したものだ。
 思えば、仏教も、儒教も日本流にアレンジされて、それが一人歩きして現在に至った。既存の学者や宗教者はそれを知りつつ、従来の認識を変える事はない。ならば、その「源」と彼等の寄って立つ立場と比較してその正当性・必然性を示すことが、知的指導者としては当たり前の責務であろう。しかし、いまだに無いが……。
 拙著で記載したマスコミの「自主規制」も、その根拠は曖昧で、詰まるところ組織の自己保身である。大宅壮一の言葉ではないが「一億総白痴化」した国民の、つまらない批判と係わるよりは穏便に、というわけだ。また、財務省をはじめ国家中枢の頭脳集団の不祥事は、戦前の陸海軍の幹部達と何ら変わらない「頭でっかち」な独善的組織であることを露呈させた。
 「言挙げぞする」で指摘した様々な事象は、本来、私のような浅学な物書きの書くことではない。右からも左からも宗教団体や、お偉い学者先生、個癖に凝り固まった方々からも、マスコミからも、恨みは買いたくないのだが、書いてしまったのだからしょうがない。
 拙著が、日本人として正しい「歴史観」「宗教観」を持ち、ひいては、いかに生ききるかという、生死観をじっくりと考える、一助になれば、嬉しい限りだ。

アマゾンへは5月20日発売でアップいたしました。
                          2018.4.28   春吉省吾

随筆「言挙げぞする」のテーマ VOL.39

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新宿駅南口 サザンテラスと、新宿貨物駅跡にできた タカシマヤタイムズスクエアを結ぶイーストデッキ。このうえから眺める新宿駅もなかなかいい。

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6番線には成田エキスプレスが発着している。

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NTTドコモ代々木ビル、時計台が印象的だ。

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右のビルは、去年の11月末から今もお世話になっている総合病院。新宿南口からは歩いて5分とかからない。

 

 山手線や地下鉄に乗っている7~8割の乗客がスマホを弄っている。私は、今でもこの景色とその雰囲気になじめない。これは日本独特のものなのかと調べると、シンガポールの地下鉄でも、バンコクでも台北でも同じ様な光景が見られるという。
 ただ、マスクをしている歩行者が異常に目立つのは、北京を除くと日本ぐらいだと思う。かく言う私も、十数年来のアレルギーと花粉症で、外出時には使い捨てマスクをしている一人だ。
 今年は、目も鼻も喉も、嚔もかつてない程激しく反応している。花粉症と付き合うことは、生きている証拠だから、感性が鈍くなるよりは、遙かにましだと思うことにしている。
 鈍いというと、自らの職務に対し、政治家、官僚の鈍感さは目を覆うばかりだ。確かに、官僚の中には、ずば抜けて頭の切れる人物が多くいる。しかし、その知恵は全て自己保身で、地に足が着いていなかったらどうであろう。国民のための政府・省庁ではなく、責任回避と組織保全が最優先なのだ。そのツケは全て日本国民が負わされる。堪ったもんじゃない。
 大臣や官僚の答弁は、その場逃れで、空虚に響いてくる。追及する野党の言葉も、十年一日の如く使い古された言葉から一歩も出ていない。
 政党、各省庁に止まらず、日本のあらゆる組織のたかが緩み、惰性に落ちている。それは、非営利団体の協会、連盟などにも蔓延している。企業であれば、常に革新しなければ、存続も危ぶまれ、社会から淘汰されてしまうという緊張感がある。しかし上述した組織にはそのような緊張感は無い。マネジメントの何かを知らない人間が、たまたま権力を握ってしまうと、その多くは特別偉くなったように勘違いをしてしまう。彼等は判断基準になる物差しを持ちあわせていなものだから、目先のことしか見えないし、自分にとって都合のいい決断しかできない。彼等にとって、将来その組織がどうあるべきかということは考えられないのだ。
 拙著「言挙げぞする」という随筆は、「歴史観」「宗教観」を根本から見直そうというのがテーマだ。日本人は実に優秀な民族だが、調子に乗りやすく軽薄なところがあるのは否めない。それは今に始まったことではない。
 歴史の転換点を見ても、軽佻浮薄は、明治維新以来のもので、何ら是正されていないし、むしろ悪しき慣習は一層増幅された。塗炭の苦しみを味わったはずの73年前の太平洋戦争の敗戦以降も、掘り下げた歴史認識をしてこなかった。そして今、中途半端なまま、我々は近未来の環境を一気に変える「シンギュラリティ・Singularity(技術的特異点)」の地点に立っている。シンギュラリティとは、AIが人類の知能を超え、それがもたらす世界の変化のことをいう。
 我々は18世紀後半から19世紀前半の「産業革命」などよりも遙かに激しい、人類史上最も矛盾を抱えた世界に生きているのだが、なかなか実感が伴わない。
 流されるままに生きて、人生の濃さを知らずに、逝ってしまうのは最高のシナリオのひとつだろうが、そうは問屋が卸さない。残念ながらそういう方は、最後の最後に「こんな筈じゃなかった」と悔やむのだ。だがその時は手遅れである。生死観が定まっていないと、軽薄な慣習、誤った伝統に翻弄されたまま、本来知るべき人生の濃さを知らずに人生を終えることになってしまう。
最近、散歩していると、「顔付きの悪い」中年・老年者と擦れ違うことが多くなった。
 「生きるための物差し」が無いから、物欲と世間体を気にしながら、漠とした不安にさいなまれている方が増えているのだろう……。これは辛い。 
 「言挙げぞする」は、そんな不安解消に、多少なりとも参考になれば、筆者としては嬉しい限りだ。
                               2018.4.13    春吉省吾

 

 

 

「言挙げぞする」と桜の経年劣化 VOL.38

 

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毎年続けている定点観測。今年は開花が早かった。

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早咲きのツツジ

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河津桜。大島桜と寒緋桜の自然交雑種であると推定されている。

 

「言挙げぞする」の最終校正の息抜きに、近くにある遊歩道の桜を見に行った。今年は例年より開花が早く、あっという間に満開になってしまった。しかしここ数年、桜の花びらが色褪せ、白っぽくなって本来の張りのある色が薄くなり劣化しているように思える。
我々が目にする桜の8割は、ソメイヨシノといわれる品種で、手入れを怠ると60年ほどの樹齢だという説もあり、近年、代替品種への植え替えが行われている。
ソメイヨシノは、江戸時代末期に江戸染井村(現在の東京都豊島区)の植木屋が「吉野桜」と称して売り出した、200年に満たないサクラである。
日本人に長く親しまれている山桜に比べると、ソメイヨシノはサクラ界の新参者である。
明治維新後の新政府は、「廃仏毀釈」をはじめとして、徳川時代から続く様々な体制を排除した。
あろうことか桜の名所にあった山桜は、政府の意向で新しく登場したソメイヨシノに植え替えられ、あっという間に全国に広まった。
もともと人が接ぎ木をして作ったソメイヨシノ。植えられて40年経ったころから弱り始め、何も手を掛けずにいれば衰退はいっそう進み、60年を過ぎると経年劣化が早まり、無残な姿になってしまうという。
戦後、公園や遊歩道に植えられたソメイヨシノは、私の感覚を俟つまでもなく、明らかに花びらが、白っぽくなっている。ソメイヨシノは単一クローンであるため、全ての株が同一に近い特性を持ち、突然変異以外に新しい耐性を獲得する可能性はなく、害虫による食害、環境による樹勢低下など一斉にその影響が現れる。山桜のように力強くないのである。
ソメイヨシノの劣化現象は、明治維新以来、あるいは敗戦後、歴史観や宗教観を、根本から精査することを怠ってきたツケが廻った我々日本人の有り様と驚くほど相似している。
自然種の山桜(吉野桜)、大山桜、大島桜などは、樹齢が長く、江戸彼岸桜などは、樹齢2,000年、1,500年など、いきいきと大地に根を張っている巨木もある。
人為的に作られた、ソメイヨシノはひと言で言えば「非常にひ弱」なのだ。自然種のように厳しい環境で根を張って自生することができない。「生きる」厳しさに耐えられないのだ。
「桜の劣化が、大変なことになっている」と騒ぐのも大切だが、自分自身の近視眼的な歴史観や宗教観をしっかりと見直すことが先決で、「その後に桜の心配をせよ」と言いたい。
現代社会では、大学受験・就職と、20代30代前半で全ての勝ち負けが決まる硬直的なシステムになっている。これは官僚システムに著しい。しかし実社会での体験を経て、本質的な勉強が必要だとわかるのは30代後半から40代なってからなのだ。その時期に、ハウツーに陥らずに、物事の本質を学び精神の土台を自分自身で学んでおかないと困ったことになる。
日本人の平均寿命は、男性が80.98歳、女性は87.14歳となり、健康寿命は男性が72.14年、女性が74.79年。寄って立つ「足場」を養生しなければ、ソメイヨシノのように、受身でただ生きているだけとなってしまう。老後は長い。まして我々人間は、確たる「生死観」を持たないと、精神の荒廃した悲惨な老後が待っている。最低限の経済保障、身体的な健康は勿論だが、自分で考え納得できる「生死観」、生き方を掴まないことには不安が増殖するばかりである。
拙著、「言挙げぞする」をお読みいただければ、今貴方に何が必要か、その覚悟のあり方も含めて、皆様のお役に立てると信じている。
                               2018.4.3    春吉省吾

 

「言挙げぞする」5月12日上梓です。VOL.37

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ここ1週間ほど、本文の修正や誤字をチェックしながら、DMや、申込書も作成していました。
お2人の方に校正をして頂きましたが、筆者としても、何度も見直しをしました。Just Rightという、校正ソフトも援用しましたが、新聞などの表記の一般的なことにしか対応していないのであまり役に立ちません。まあ、日本語は難しいということを改めて認識しています。
DMのメインのコピーにはこんなことを書きました。

日本人が明治維新以来、疑いもしなかった「常識」は、本当の「常識」ではない。
長きに亘り、歪んだ「常識」を鵜呑みにし、「言挙げしなかった」日本国民は何度とな
く奈落の底に突き落とされた。
今や地球上のあらゆる自然は可逆的に暴れだし、欲望の資本主義はコントロール不能
このような激変する世界に向き合うためには、歪んだ「歴史観」・「宗教観」を
質さなければ、あなたの明日の土台は定まらない。
借り物の「生死観」では、この先を乗り切れない。
ならば、我々は視野を遙か遠くに拡げ、一万六千年前の縄文時代の精神をもとに、
近しい歴史を見直し、生ききるために「言挙げ」しなければならない。
本書は、日常茶飯の「今」に、本来の面目を求め、日本人が失ってしまった魂を呼び戻す、日本人必読の哲理的随筆集。

内容的には、殆どの方が驚かれる内容でしょう。本来、こういう随筆は、学者の領域で、私のような、門外漢が書くようなことではないのですが、誰も書かないので「言挙げ」しました。
宗教、哲学などの本質に踏み込んでいますので、少し硬派な内容もありますが、本来は日本人としてきちっと知らなければならないことです。18の各章は以下の通りです。

●はじめに──「歴史観」と「宗教観」の見直しを 
●むすんでひらいて──人間の本当の器とは 

●勝つにも芸を──AIと人間の可能性 
●「守破離」と鮨職人──技や芸の基本とは
●凝れば正しさもまた……──柔らかな発想こそが求められる
●死にとうない──仙厓和尚の生への願い 

●人生は四つの「直し」──問題解決のための道筋 
●なかいま──今を生ききる大切さ 

●失って得られるもの──言葉狩りと自主規制
●気とエントロピー──生命力を高める方法 
●越えてみればもぐらの山よ──成功も失敗も我が内にあり
●神仏儒の混合──日本人の行動原理と精神構造 

道教の影響力──本当の神道は縄文の中にあり
儒教の宗教性と仏教──本当の儒教を知らない日本人
●清貧か豊かさか──貧しい民主主義か、豊かな御都合主義か
●絶望の淵から「不二一体」へ──空海の思想から我々が学ぶこと
●時世のつみ(罪)ごと──世界視野から戦争責任を考える
●あとがきにかえて ──生死観などについて
 こういうジャンルの随筆は、今までなかったものですから、上梓まで数回に分けて、ご案内させて頂きます。まあ、お読みいただければ一番早いのですがね。    

                                                                          2018.3.26春吉省吾

 

9月「風浪の果てに」から「秋の遠音」へ 今年も残り3分の1、全力投球! VOL.31


●2017.8.14福島市の弁天山からの展望。
「風浪の果てに」の本文44ページから48ページ。主人公、沼崎吉五郎と京が、しみじみと城下を見下ろした同じ場所に立った。
中央には阿武隈川が流れ、その後ろは、福島城跡、現在は福島県庁。左の橋は天神橋、江戸期では奥州街道、福島宿の入り口であった。その手前は福島河岸。米沢藩を始め、江戸へ回漕するための米蔵が並んでいた。
この地点は、安寿と厨子王と母が、暮らしていた「椿館」の跡と言われている。

●弁天山・椿館跡。安寿と厨子王と母が、ここから旅立った。

●弁天山・椿館跡。この日、一時間ほど散策したが、誰にも出会うことがなかった。福島の中心から車で10分。最高のロケーションなのだが…。蝉時雨が何故か寂しい。行政の宣伝不足か?「風浪の果てに」、「春のみなも」も、市長はじめ、まともに読んでいる市の職員は少ないだろうからな……。

●持ち寄りの大御馳走。暑気払いを兼ねた「同級会」。風流な三味と、小唄も。

●福島近郊の8月14日、稲の生育は良好と思われたが、その後の長雨と日照不足でどうなったか心配だ。

●9月に入って、朝のウォーキング。
中野通りと方南通り、新宿に続く南台交差点近くのサルスベリの並木が満開。
 ◆私のスケジュール帳は、9月始まりなので、毎年買い換えるたびに8月までの事を振り返ります。 
 ここまで、相変わらず多忙でした。忙しさの筆頭は、3月に長編小説「風浪の果てに」を上梓し、福島脱藩浪人沼崎吉五郎という人物を「生き返らせた」ことです。
 事件に巻き込まれ、伝馬町に繋がれた吉五郎。西奥揚屋の牢名主となり、吉田松陰の遺書「留魂録」を預かり、三宅島に流されて15年。明治7年に赦免になり、東京に戻ってきます。その2年後に、松陰の妹二人を嫁にした楫取素彦に連絡を取るが叶わず、ようやく「留魂録」を野村靖に手渡します。以来、吉五郎の足取りは杳としてわからないままでしたが、「風浪の果てに」では、その後の吉五郎の悠々たる人生を描いています。ヒロイン達も活き活きと描ききったつもりです。
 勝てば官軍、生き残った長州閥の跋扈によって、現在も根強い長州人脈が存在し、彼等の実力は過大に語られています。楫取にしろ野村にしろ、久坂玄瑞にしろ、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で描かれるような人物ではありません。司馬遼太郎さんの、幕末、明治維新の人物描写もそのまま鵜呑みにせず、吉村昭さんの幕末の小説を読むことをお薦めします。
 
 「風浪の果てに」の脱稿から上梓までの間に、編集作業、表紙や、本の装丁等々、印刷業者との打ち合わせ、ネットへのPR、チラシ作り、パブリシティ活動など、作家活動の他にもあらゆる作業を独りでやっているため、年末も正月もありません。(いつものことです)
 加えて、上梓間近の2月に田舎の母が、大腿骨頚部骨折で入院した事も重なって、東京・福島間を往き来し、疲労はピークでした。
 ようやく「風浪の果てに」が仕上がって、私のところへ運ばれてきましたが、運搬員が、車をぶつけてミラーを壊したとかで、ブツブツ言うだけで、まともに働かず、本の搬入を殆ど一人でこなしました。いゃあ、大変でした。「本は重い」のです。自作の本は尚更です。
 疲れが更に重なって「帯状疱疹」の痛さも経験しました。
 まあ何とか世に出した「風浪の果てに」は、3月25日の週の、セブンネットサイトの「新着・本・コミック」1週間売上ランキング1位になりました。作家としては、もっと多くの方に読んでいただきたいのですが、何分超零細出版社で、取次も、東販の下請け会社なので、販売力は微弱です。何れ何とかしたいものです。読者の方々の中で流通・取次会社の「つて」をお持ちでしたら、ぜひご紹介・仲介をお願いいたします。

 弓道の早朝稽古は、週2回、何とか時間をやり繰りして続けています。6段を取得してから、武道、特に弓道の本質は体軸と手の内にありという信念から、中りを度外視して、基本からやり直して2年、最近ようやく、微妙な「技」の感触が10射に1、2射、体感できるようになりました。
 46歳からはじめた居合も今年で20年。やはり体軸と手の内、技の緩急を身体に覚え込ませるために、ここ半年、隙間時間を縫い、毎日、抜きの稽古をしてきました。短い時間でも、精神を研ぎ澄まさないと、本身(真剣)ですから、怪我をしてしまいます。
 お陰様で、6月末日に大阪で行われた、全日本剣道連盟居合道の6段審査に合格することができました。
 これで、弓道居合道も6段を頂き、時代小説を書く上で、弓や刀の扱いを描写する際の、リアリティは他の作家よりもあると、自負しています。
 そんなことから、役者達が、弓と剣を扱うシーンを映画やテレビの中で見ると、どれだけ熟達しているかという観点からつい眺めてしまいます。
 昭和の有名な時代劇スターでも、まともに弓を扱える役者は残念ながら一人もいません。剣の扱いが上手な俳優は、昭和の初めから現在まで、勝新太郎さんただ一人です。視聴者を喜ばせる事を重視する殺陣師さん達も、見てくれだけでなく、真剣を扱うとはどういうことなのかと、その基本を学ぶべきです。

 現在、長編時代小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」を執筆中ですが、6月に下手渡自治会の渡邊さんという方から、
下手渡藩の事をお書きになっているようですが、下手渡や三池の事をお話しいただきたい」
という依頼がありました。
 執筆途中で、その作品の人物達や、背景などについて講演するというのは、かつて聞いたことがありません。ずいぶんと躊躇しましたが、引き受けることにしました。
 伊逹市月舘や霊山町伊達郡川俣町、福島市飯野町などを含む「下手渡藩」の存在は、地元の方もあまり知りません。また、立花家が下手渡に移封になって45年後、下手渡の一部と、旧領の三池(現在の大牟田市)の一部とが交換になり、1500キロほど東西に離れた双方の管理が必要となりました。
それぞれの郷土史家達の資料は微妙に食い違い、その資料も少ないのです。このままではこの歴史的な事柄が埋没してしまいます。
 講演会で地元の人達と懇談し、この地方の歴史を再認識して貰い、地元の活性化に少しでもお役に立つことが出来ればいいなと思っています。
 というわけで、この9月10日に、伊逹市の「下手渡地区交流館」で講演して参ります。
すぐ隣には、「つきだて花工房」という、自然の中に建てられた宿泊施設があります。良いところです。機会があれば訪ねてみてください。今回は残念ですが、そこには宿泊しないで戻ります。
 ともあれ、戦国時代の九州の猛将、高橋紹運の子立花直次(兄は立花宗茂)を藩祖とする三池立花家が、遠く東の奧州下手渡に移封となり、最後は三池に戻る、廃藩までの歴史は、幕末・明治初期の激動を舞台にした、壮大なスケールの大河小説に相応しいものです。
 ここ数日、PowerPointで、講演会用のスライドを作っていました。 
 その講演会の報告は9月の後半にお届けできると思います。お楽しみに。
                            2017年9月6日 春吉省吾