春吉省吾のブログ

物書き・春吉省吾のブログです。マスメディアに抗い、大手出版社のダブスタに辟易して一人出版社を営んでいます。おそらく、いや、世界で最もユニークな出版社だと自負しています。

「風浪の果てに」3月13日発売決定!!


お陰様で「風浪の果てに」3月13日発売決定となりました。
先ずは【 あとがき 】の部分を先駆けてお知らせいたします。
尚、以下の2つの「ノーク出版ネットショップ」のブログから先行注文を頂くと、特別価格にてご購入が出来ます。
本文は原稿用紙1200枚の長編書き下ろしです。
通常の出版社では、利益追求から上下2冊になるはずですが、584ページの1冊に纏めました。
ご購入は
https://www.nork.info/
あるいは
http://nork-hanbai.net/
株式会社ノークのホームページ、ノーク出版のホームページ、全て改訂いたしました。全て独り仕事なので、時間がかかりました。
お暇なときに眺めてみて下さい。
【 あとがき 】より
平成28年の12月26日の早朝、長編「風浪の果てに」を脱稿いたしました。不覚にも鼻水と涙が止まらずに「自分で書いたものに自分で泣いてどうする」と思ったものです。
私のこれまでの作品は日本の作家の誰とも違って、全て超長編書き下ろしですから、脱稿して形にならないと、それまでの努力は一切酬われずに埋もれてしまいます。それ故に、脱稿した瞬間には「今ここで死んでもいい」というような大きな感動があります。
「風浪の果てに」では、松陰と吉五郎を際立たせることによって「生と死」の意味を記述いたしましたが、吉五郎を取り巻く境遇はそれすらも呑み込んでしまう苛烈な幕末・維新の物語です。
今回の構想は十年前から温めていたのですが、関連する多くの資料を読み込んでみると、現在に至るまで、勝手な松陰像を作り上げている方々が何と多いことかと改めて思います。
例えば「やむにやまれぬ大和心」という文句を卑小に抜き出し、権力や自己防衛のために使ったり、勝てば官軍という勝者・長州閥の奢りの残滓が、未だに正しい松陰像を探ることを歪めています。
松陰は自らの死によってその存在を自己完結させましたが、吉五郎はそうではありませんでした。若いときから斜に構えて生きて、係わった女達を皆不幸にしてしまうという恐怖にも似た感情を抱え、過酷で理不尽な人生を耐え続けました。その生き方の何と人間臭く、魅力的なことか。
「人間皆凡夫なり」。多くの人物が登場する骨太の哀しく切ない物語をお楽しみください。
なお本小説の荒校正を含めて貴重なアドバイス福島民友新聞社元常務・菅野建二様に頂きました。 ここに心より感謝申し上げます。
(春吉省吾 平成29年1月15日・強烈な寒波の東京で)

「吾妻鏡」と伊達郡国見町 「阿津賀志山の合戦」〜中世最大の戦い〜  VOL.17


太田町長様と

酷暑の中案内いただいた大栗さん。右奥は阿津賀志山

阿津賀志山土塁跡と中央の阿津賀志山

土塁の断面図・左が鎌倉軍、右が奥州軍

土塁の上から国見・藤田を望む。右に藤田城跡・源宗山、源頼朝が本陣を置いたとされる


藤原泰衡の首桶に残っていた蓮の種が平成10年に開花。国見町では平泉から平成21年に貰い受け育てている。
奧州道中 国見峠長坂跡
石名坂で敗死した佐藤基治等一族の首級は、この先の経ヶ岡の地に晒された。芭蕉も通った「奧州中道」、私もいろいろな思いを抱いて歩いた道でした。

石名坂で敗死した佐藤基治等一族の首級は、この先の経ヶ岡の地に晒された。芭蕉も通った「奧州中道」、私もいろいろな思いを抱いて歩いた道でした。

(1)伊達郡国見町」中世最大の古戦場跡へ 
吾妻鏡」(あづまかがみ)という鎌倉時代に書かれた歴史書があります。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの事績が記載されています。
 その「吾妻鏡」の中に、奥州平泉藤原氏の4代藤原泰衡を総大将とする「藤原軍」と源頼朝が率いる「鎌倉軍」が戦った奧州合戦の最大の激戦地の事が書かれています。その場所は福島県伊達郡国見町にあります。今から827年前、頼朝軍を迎え撃つために築かれた防御防塁「阿津賀志山防塁」の一部が今も残っています。
 ここ「阿津賀志山」の合戦は、東北大学入間田宣夫先生によると、
「阿津賀志山合戦に参加した実際の兵員の数は、両方併せて、3万騎ぐらいと見てよいのではないかと思います。しかし、この3万騎という数は、あの『関ヶ原合戦』にも匹敵する様な非常に大規模な、たくさんの人数が参加した壮大な合戦であったことを示しております。日本の中世では最大の合戦であったと考えられるのであります」

 私は今まで、全く違う目的で「吾妻鏡」を読んでおりまして、「阿津賀志山防塁」の存在を知ってはいても、あまり興味も抱かず、詳しく知ろうとしませんでしたので、偉そうなことは言えませんが、一度は中世最大の古戦場に立ってみたいという強い思いが働きました。
 今回、国見町教育委員会生涯学習課の大栗行貴さんに現地を案内して頂きました。
 7月の頭に「阿津賀志山防塁」の資料が欲しいと、大栗さんに連絡したところ、資料をお送りいただいたのですが、郵便局の手違いで戻ってしまったようです。それならと実際にお伺いすることにし、8月の13日土曜日の午後、お目にかかり説明を受けた後、現地を丁寧にご案内いただきました。大栗さんは「阿津賀志山防塁」など、考古学の若手研究家です。
 国見町の太田久雄町長さんにもお目にかかりました。拙著「春のみなも」贈呈の御礼にと、特産の桃をお土産に頂きました。大ぶりな「川中島」は瑞々しく美味しかったです。ありがとうございました。

 さて、私の目の前に拡がる阿津賀志山の夏風景は、頼朝自ら兵を率い、藤原軍と合戦に及んだ場所とは思えない穏やかな景観でした。
 今やその防塁は、東北本線東北新幹線国道4号東北自動車道などに分断され、さらに耕作や用水路などによって地形が相当に改変され、水田畦畔・畑地・果樹園などに変わり、断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残しているだけなのですが、それは平泉とは大きく違います。
 芭蕉は、奥州藤原氏の滅亡、英雄源義経の終焉の地、平泉に立ち「夏草や兵どもが夢の跡」という感傷の句を詠みましたが、その趣とここ阿津賀志山の風景は全く異相します。
 命を賭け戦い、燃焼しきった後の「安穏」と「静寂」は、厳しい夏の陽射しの中ですっくと伸びる稲の茎と葉に移し込まれているのでしょうか。八百数十年の長い時間の経過は夢の如くです。
 土曜日の午後、この日もうち続く猛暑は収まらず、国見町は暑かったです。
 貴重なお時間を頂いた大栗さんと太田町長さんには改めて御礼を申し上げます。

(2)「吾妻鏡」と国見「阿津賀志山」

 「吾妻鏡」のその部分の記載を現代語訳にして一部記載してみましょう。(「吾妻鏡」4.奧州合戦 吉川弘文館)
 文治5年(1189年 )8月7日 甲午
 「二品(源頼朝)陸奥の国伊達郡阿津賀志山にほど近い国見の駅に着御す。ところが夜半になって雷鳴が轟き、御旅館に落雷があり、皆恐怖を感じたという。
 藤原泰衡は、これまでに頼朝が出陣したことを聞き、阿津賀志山に城壁を築き、要害としていた。国見宿と同山との間に、にわかに口が五丈(15メートル)もある堀を構え、逢隈河を堰き入れて柵となし、泰衡の異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍とし、金剛別当秀綱とその子下須房太郎秀方をはじめとする二万騎の軍兵を付けて派遣した。(こうして)山内の三十里は軍勢で充満した」
 吾妻鏡に記載のある阿津賀志山の城壁は全長3キロにわたつて帯状の堀と土塁が築かれ、一重と二重、三重の土塁跡が発掘されています。堀の深さは3〜4メートル、堀の全体幅も「口五丈」というように15メートルの規模です。専門家によると、これら土塁の構築と大将軍藤原国衡が護る大木戸の本城の工事など、総計40万人の人夫が動員されたということです。
 また奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)を居城とした佐藤基治は、頼朝の鎌倉軍と「石名坂」の上に陣を築き対峙しました。基治は源義経の従者佐藤継信・忠信の父です。これら城壁陣屋の建設などに注がれた人夫の数は述べ5〜6万はくだりません。実に福島市以北の全てが奥州軍と鎌倉軍との直接対決ラインでありました。ただ残念なことに 「石名坂の戦い」の場所は、現在の福島市平石、もしくは飯坂と未だに諸説が別れていて特定できていません。
 尚この戦いで、頼朝軍の先兵として佐藤基治と戦った常陸入道念西、後の伊逹朝宗は戦いに勝利し、頼朝から伊達郡を貰いその子孫の伊逹政宗に引き継がれ、秀吉の奥州仕置きによって、仙台に移封になるまで、この一体を支配したというわけです。
 伊達政宗の祖父・祖母は現在の福島県庁の「福島城」を隠居所として使っておりました。祖父母に可愛がられた孫の政宗の信達地方に対する思い入れは尋常ではなく、関ヶ原の戦いの直後、慶長5 年(1600年)10月6日、伊達政宗は本庄繁長が立て籠もる福島城を奪おうと、青葉山(信夫山の古名)の麓に陣立てするも、須田長義にも攻められ、不覚をとり白石に撤退しました。これを「松川の合戦」といいます。
 現在の仙台「青葉城」の名称は、政宗が遂に成しえなかった郷愁と屈辱の心象風景なのです。

(3)頼朝のねらいは平泉にあらず、朝廷に対する圧力と全国制覇
 頼朝のねらいは、奥州平泉を平定するというのは表向きで、鎌倉幕府の全国完全制覇のための総仕上げとして「奧州合戦」が位置づけられました。鎌倉、頼朝軍からみれば「奥州征伐」ということになります。
 「吾妻鏡」は勝者、鎌倉幕府の記述であり、都合のいいことが多く記載されていますが、総合的に判断しても頼朝の凄さが判ります。後世の徳川家康が、頼朝を尊敬し「吾妻鏡」を熟読したことも頷けます。
 頼朝はそれぞれに癖のある、しかし能力のあるブレーンを上手に使いました。  
 元京都の下級官僚の大江広元三善康信をはじめとして、大庭景義・八田知家・千葉常胤・和田義盛比企能員梶原景時らのメンバーです。
 残念ながら、頼朝亡き後の土台は北条一族によって抑えられ血筋は途絶えますが、その辺りも家康は見事に学習しています。やはり武家政権の全ての見本は「源頼朝」なのです。
 また、後白河上皇は、頼朝の前に立ちはだかる最大の策略家で「大天狗」と称された人物です。 
 しかし遠く鎌倉にあった頼朝は、上皇の宣旨を俟たずに、日本国66カ国の内、平泉の奥羽、出羽を除く64カ国の武将達に対して、「奥州討伐」参戦の日本史上最大規模の命令を発しました。
 薩摩はじめ南九州の豪族まで根こそぎ動員され、はるばると国見の「二重堀」まで手弁当でやって来たのです。その見返りは、頼朝からの領土安堵・官職などの褒美です。不参加者は領地を取り上げられ、財産没収というわけです。
 もはや頼朝にとって、勝つことは当たり前、その目的は全国の武士達を総動員して、奥州平泉の地で勝ちどきを上げることです。奥州平泉の藤原氏の存在は頼朝にとって「生け贄」でありました。政治の厳しさ、頼朝の政治家としての冷徹な意志が判ります。

4)秋の尾花 色を混え、晩頭の月、勢を添ゆ 

頼朝軍は、軍勢を三つに分けて、頼朝自身は大手軍として中路(奥州道中)より、太平洋側からは千葉常胤を総大将とし、また北陸道からは比企能員からと、それぞれの地を靡かせて平泉に向かいました。
 阿津賀志山の戦いを終えた頼朝は、一週間ほど陸奥国の行政の中心「多賀城」に駐屯し、念入りな作戦を確認し平泉を目指しました。
 9月4日、奥州軍を一掃した、三軍全てが、紫波郡陣岡(岩手県紫波郡紫波町)に集結しました。諸人の郎従らを加えた全軍は実に28万4千騎と想像を絶する大軍となったのです。
 吾妻鏡にいう。
 「それぞれに白旗を打ち立て、おのおの弓に倚せおいた。秋の尾花が色を混じえ、晩の月が勢いを添えていたという」
 同6日、藤原軍の総大将泰衡の首が陣屋に持ち込まれました。

 頼朝は、治承4年(1180年)8月17日に挙兵した後、11月の17日に常陸の佐竹との戦いに勝って以来、木曽義仲を討ったときも、平家を追討したときも、自らは戦場に立つ事はありませんでした。
 この挙兵の戦いを除くと、「阿津賀志山の合戦」は西は九州から東は奥羽まで統治するための頼朝の総仕上げの戦いで、先陣に立った最初で最後の戦いでした。
 承久元年(1190年)頼朝は初めて京都に赴き、権力者後白河上皇と面会し、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられました。これにより朝廷から独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれたわけです。 
 何と壮大な、頼朝の政治的野望が展開されたことでしょう。
 そして阿津賀志の合戦で戦い散った、多くの武者、若き武者達の戦いぶりを交えて、殆ど知られていない壮大な合戦の背景にある人物の悲哀と、息遣いを書きとめられたら面白いなとおもっています。物書き春吉の独り言です。
平成28年9月6日  春吉省吾

「人を殺す」ということ 〜「風浪の果てに」の執筆の裏話〜VOL.12

 「風浪の果てに」という長編時代小説を書き始めて、大分たちます。当初に全体のプロットを作って書くのですが、細部に亘っては、書きながら変わってくるというのが、このところの執筆スタイルです。ガチッと枠を固めてしまうと、文章にゆとりがなくなってしまう気がするからです。  
 その時々の「ゆらぎ」のようなものをゆっくりと掬い上げ文字にしたいと思っています。
 長編ともなると多くの人物が登場し、死んでいくことになります。当たり前のことですが、それぞれに異った生き方と、その果てにある「死」を書くことがすなわち「生」を表現することであり、それが「物語」です。
 「風浪の果てに」では、既に2人のヒロインを「殺して」しまっています。半年ぐらい前から、もう1人のヒロインの「死」がずっと頭の隅っこにありました。
 全4章の内、そのヒロインの死を含む第2章の最後の部分がどうにも纏まらず、ずっと迷っていたのですが、やっと6月の末に書き終えました。  
 その間、その部分はそのままに措き、第3章を書き始めたのですが、こんなに呻吟するとは思っていませんでした。
 目を背けたくなるような情景であっても、読者が次の活字を追いかけずにはいられない文章を書きたかったからです。感情過多に陥らずしかし、情感は豊かに表現したいという追求です。尤も、上手くいったかどうかは読者の方々の読後感に委ねるしかありませんが……。

 そんな時、「ALWAYS 三丁目の夕日」や、最近では「精霊の守り人」の劇中の作曲(これを劇伴というらしい)をされている佐藤直紀さんが、テレビ番組で、
「つらいですよ(笑)。曲を書いてる最中は本当につらいです。スラスラ書ければいいですけど、曲なんてスラスラ書けるわけないじゃないですか。でも、締め切りはある。今日中に1曲終わらせておかないと、あとが大変だ、という日々の繰り返しなので、毎日本当につらいです。音楽が楽しいという時代は、大学で終わりました」
 とドキュメンタリー番組でお話ししているのを聞いて、深く納得した私でした。

 書き始めた第3章は、小伝馬町が舞台です。現世地獄として名高い「江戸牢獄」。ここでは、主人公の沼崎吉五郎と関わった、2人の人物とのやりとりを通して筋立てをしていきます。
 1人は、堀達之助、もう1人は吉田松陰です。
 前者は、ペリー艦隊の来航に主席通詞として活躍した人物ですが、思いもかけない罪で入牢。  
 同じ時期に獄中にいた吉五郎は、日本に押し寄せるアメリカやロシアの最新情報を奇しくも獄舎の中で聞けたわけです。
 もう1人の吉田松陰は、日本中で知らない人はいない人物です。西牢の牢名主となって、松陰が斬首になるその朝まで一緒にいた吉五郎は、遺書となった「留魂録」執筆の便宜を図り、その後、三宅島に流されても大切に持ち続け、それを後世に残しました。
 その吉五郎は松陰から何を感じ、学んだのでしょうか。
 松陰自身、死に臨んで、倒幕出来るなどとは思ってもいなかったはずです。松陰は理想に陶酔したかのような印象を抱かせますが、実は観念論では決して動かず、歴史の中から賢人や豪傑の仕事を捉えようとした人物です。
 松陰が吉五郎に獄中で教えたという、「孫子」と「孟子」を物書きとして読み直し、数十年前に買い求めた「講孟箚記」などを読み返し、巷間伝えられている「吉田松陰」という物差しの目盛りを捉え直すことから始めました。山鹿流の兵学から学び始めた松陰の中には、「山鹿素行」の考えがどっしりと居座っています。いろいろと勉強が必要です。

 私は松陰の志が、松下村塾の弟子達に忠実に継承されたとは思っていません。特に幕末を生き延び、権力を恣にした伊藤博文や、山県有朋にはその欠片もありません。後の多くの疑獄事件がそれを証明しています。
 松陰自身も死の6日前、獄中から、萩の岩倉獄に投獄されていた入江杉蔵(九一)に宛てた長文の手紙の中で、「要之諸人才気齷齪、天下の大事を論ずるに足りず、我が長人(長州人)をして萎薾せしめむ」とあります。
 松陰は大分思い詰め、小田村(楫取素彦・妻は2人とも吉田松陰の妹・「花燃ゆ」では大沢たかおが演じました)や久坂(久坂玄瑞・この男なかなか食わせ者です。「花燃ゆ」では東出昌大が演じました)たちは、私が伝馬町の獄舎に繋がれて、5ヶ月以上になるが、手紙ひとつもないと、友や子弟達の優柔不断さを嘆き、「要は長州人は、才気はあるが心狭く、冷淡であり、そんなことでは天下の大事を論ずることは出来ないではないか」と嘆いています。
 松陰は長州人の本質を見事に言い当てています。しかし、殆どの作家は、冷徹な視点を自ら放擲するように、松下村塾の弟子達を殊更持ち上げます。いつの世にも、磨いても玉にならない、あるいは才に溺れる人間はいるものなのです。いかに天才的な教育者吉田松陰をしても、心賤しい者はそう簡単に矯正されるわけではありません。かといってあまり長州人を毛嫌いすると、これまた会津びいきの早乙女貢さんのように、高杉晋作を一方的にチンピラ扱いにしてしまうというのも考えものです。まあ、20代の人間達が明治維新を動かしたのですから、言葉悪くいえば「未熟な青二才集団」には違い無いのですが……。

 そんなわけで、既成概念を払拭するには気分転換が必要です。
 7月の4日の夕方から翌日5日一杯、石和、甲府に行って参りました。私が非常にお世話になっている長澤邦夫、千鶴子ご夫妻が、「右楽」という美味しいおそば屋さんを営んでおります。(基本的には月曜日と火曜日、水曜日が休みなのですが、冬の時期は降雪のため長期休暇にはいりますので、お出でになるときは確かめて……)もりそば1枚のためにはるばる東京から訪ねてこられる方も多いというお店です。
 私にとって、ご夫妻は小説の筋立てのヒントや、出来上がった作品を批評していただく大切な方々です。長澤兄は様々な顔を持つ方で、早稲田の商学部を卒業の後、色んな職種を経て、何と花火師の経歴を持っています。蕎麦好きが昂じて、全国の蕎麦を食べ歩き、蕎麦の原料を仕入、蕎麦汁の返しなど自分が納得いくものを作り上げて現在に到っています。桃の咲く頃「右楽」さんのカウンターから眺める景色はまさに桃源郷です。
 一人息子の皓一さんは、単身フィレンツェに出かけ、その心意気と実力を現地の料理界のドンに認められ、そこでしっかりと修業したあと、現在甲府市内でイタリアレストランTrattoria Boboli(トラットリア・ボーボリ)というお店を営んでいます。5日のランチに、カルボナーラの白トリュフ(「食べ物の王者」です)のせを頂きました。まさに絶品、感動の味でした。デザートのパンナコッタも「う〜ん、美味い」と思わず唸ってしまいました。お孫さん達2人もカナダに留学しておられ、夏休みで日本に戻ってきたばかりということでした。なんとも国際的です。
 長澤兄のボランティア活動も国際的で、ラオスに学校を建て、維持管理するなど、70を過ぎた爺さんの発想からは飛んでいます。凄いなと尊敬する人生の先輩です。
「右楽」さんのHP http://www.uraku-info.com/
Trattoria BoboliさんのHP http://www.t-boboli.com/colazione/index.html
 甲府、石和に行かれた際は、お時間があれば、是非お立ち寄りを。

 さて7月も第2週。外せない雑事とおつきあい、大事な「飲み会」、弓道・居合の稽古、試合、初心者指導日などをカレンダーの予定表に埋め込んでいくと、空きがなくなりました。
 肝心の執筆作業は、今年中に「風浪の果てに」を上梓する予定にしています。
 「秋の遠音」、「空の如く」、「言挙げぞする」という随筆集、そしてシリーズ短編時代小説「初音の裏殿」の主人公はもとより、脇を固める多彩な登場人物の出自、性格、人間関係などの詳細設計と時代背景、シリーズ20作に絡む実在した歴史上の人物達との絡みなどを練り上げていきます。これら全ての予定をこなすとなると寝る時間が無くなってしまいますが、歳を考えてそこそこにしないと……、多少の予定遅延はご容赦ください。
 この2日間、長澤兄のご家族のお陰で、すっかりリフレッシュさせて頂きましたので、「風浪の果てに」の第3章、そして吉五郎が三宅島に流されてからの第4章としっかりと書き進める事が出来そうです。 
 主人公沼崎吉五郎には、絶望の奈落のその先に、更なる波瀾が待ち構えています。果たしてどのような結末を迎えるのでしょうか……。仕上がりをお楽しみに。
 春吉省吾 2016.7.6


本日休業「右楽」さん

宿泊させて頂いたベランダから、青竹の美しい空間が拡がる。

Trattoria Boboliにて 長澤家の皆様方。長澤ご夫妻、皓一さんご夫妻と、カナダから帰国していたお孫さん達。

長澤兄とご長男皓一さんと私

朝、食事前に、新道峠に連れていって貰いました。富士山の絶景ポイント。天気の良い時には富士山と真下に河口湖が望めるそうです。この日は青空が拡がるも、裾野は曇に覆われていました。しかしこの幻想的な富士の姿も美しい。

武田神社にて


武田氏を滅ぼした織田信長は、匿った者達を引き渡すように快川和尚に命じたが、和尚は拒否。信長は山門に快川和尚をはじめ百人の僧侶を閉じこめ火を放つ。左右の柱に「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」の辞世が記されている。境内には武田信玄公の墓や、柳沢吉保夫婦の墓もある。

恵林寺庭園
夢窓国師築庭の恵林寺の庭園。パンフレットには、この後国師西芳寺苔寺天竜寺の庭も築庭されたと書かれていた。外廊に坐って視線をあげると、借景の山並みが溶け合う。その先には、中山介山の時代小説の書き出しの大菩薩峠があるはず……。



「春のみなも」と「経営の嘘」の内輪話

 「物書き」春吉省吾には拘りがあります。つい最近までデザイナー・イベント設計などを生業としていたことから、本文の物語性というだけでなく、表紙や装丁、キャッチコピーや、目次前に記載した和歌や古文書などの引用は、物語に、より深みを与えたいという明確な意図をもって自分自身で作り上げます。
 ご存じのように「春のみなも」の上下には、古今和歌集から1首、金槐和歌集から3首、上下巻に2首ずつ掲載しています。この4首は、いずれも主人公「初」の心象を表現しています。そして「金槐和歌集」から3首引用しましたが、その作者、源実朝鎌倉幕府三代目の征夷大将軍で、鶴岡八幡宮で暗殺された薄倖の武人です。源氏の将軍はそれによって途絶えてしまいます。初のもとを去り逝ってしまった男達の鎮魂歌という意味もあります。
 冒頭に出てくる上下各2首の和歌の意味合いを気付かずに、読者の多くは読み飛ばしてしまうかもしれませんが、一度読み終えて、再び開いたときに、この上下2首はより深い印象をもって味わって頂けると思っております。

漏らしわびぬ 信夫の奥の 山深み 木隠れてゆく 谷川の水
心の中を打ちあけられず、この胸は痛む。信夫の奥の山深く、
谷川の水が木の陰をひそかに流れていくように、人知れず恋をする私。             (金槐和歌集・春・四百三十七 源実朝)

 また、佐藤祥一名で上梓している「経営の嘘」の冊子裏表紙(カバー表紙の内側の表紙)には、面白いことが記載されています。そのまま転記してみましょう。

表紙の「五芒星」をかたどった「結定往生之秘印」は、安倍晴明閻魔王より給わった「秘印」と伝えられている。京都真正極楽寺真如堂から受けた御札である。
日本の平安時代陰陽師安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いた。
印にこめられたその意味は、陰陽五行説、木・火・土・金・水の五つの元素の働きの相生・相克を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
陰陽道というとおどろおどろしいが、仏教、儒教道教と全てを統合した、宇宙のあらゆる動きが表現されている。
意志決定に迷ったら、本冊子に手を置いて、「神よ、仏よ、次はそちらの番だ」と叫んでもいいし、じっと沈思して心を落ち着けるのも良い。
それらのことは「呪術に凝る・現世利益を頼む」のではなく、「自分自身の思考の凝りを解き放つ」ためのものである。
◆ 尚、本書売上げの一部を、ご祈祷料としてお納めいたします。

 このように記載してあります。
 本来は、編集者のような方がいてコピーを作成するのでしょうが、編集者はいませんので、私自身が作っています。
 経営はもとより、一人一人の大事な意志決定は、拙著を読んだからと「はいそうですか」と言えるようなものではありません。理屈を越えた処に各自の行為があって、その結果はそれぞれ個々人が甘んじて享受しなければならないものです。だから、敢えて前述のような言葉を記載しました。事の本質を判っておいでのかたがたには、首肯頂けるものと確信しております。

 さて、朝の散歩兼トレーニングコースの途中、近くの神社にお参りをしていますが、2週間ほど前から、社殿の正面に「茅の輪」が設えられている神社があります。
6月の夏越(なごし)の大祓(おおはらい)です。
 身についた半年間の穢れを祓って、無病息災を祈るためで、社殿の前に設えた茅の輪を左まわり・右まわり・左まわりと、八の宇を書くように3度くぐり抜けます。
私は無邪気に楽しんでやっています。

 ギリシャから日本に帰化したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「神道には、哲学も、体系的な論理も、抽象的な教理もない。そのまさしく『ない』ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。神道は西洋の近代科学を喜んで迎え入れる一方で、西洋の宗教にたいしては頑強に抵抗する。これに戦いを挑んだ外人宗教家たちは、自分らの必死の努力が、空気のような謎めいた力によって、いつしか雲散霧消させられるのを見て茫然とする。それもそのはず西洋の最も優れた学者でさえ、神道が何であるか解き明かした者は一人もいない。(中略)
日本人の魂は、自然と人生を楽しく愛するという点で、誰の目にも明らかなほど古代ギリシャ人の精神に似通っている。この不思議な東洋の魂の一端を、私はいつしか理解できる日が、きっと来ると信じている。そしてその時こそ、古くは神の道と呼ばれたこの古代信仰の、今なお生きる巨大な力について、もう一度、語りたいと思う」 
 ハーンの素晴らしい把握力です。
 私にとっての「祓い」とは、「夏越の大祓」の様な機会を捉えて我欲、我見、執着心などの異心を祓い、自分自身の心と向き合って、おおらかな気持で日常を見つめ直すという類いのものです。つまり「経営の嘘」の裏表紙に記載したとおり「呪術に凝る・現世利益を頼む」のではなく、「自分自身の思考の凝りを解き放つ」ためのものです。そういう風にご理解ください。
春吉省吾 2016.6.23


紫陽花にも色々な種類がある。土の成分によっても色が変わる。もっちりとした紫陽花の風情はまさに、梅雨の風物である。ただ、残念なのは、散り際が汚い。 そこに「盛者必衰の理」や「諸行無常」の本質を捉える感性がほしいのだが、日本人の穢れの感覚と花に対する拘りがそれを妨げる。
鎌倉のお寺では、枯れてしまう前にあじさいの花を摘んでしまうという。(写真は家の近くの散歩道)
茅の輪くぐり いつも行く「代々木八幡」2016.6.20
渋谷区と新宿区の境界です。右側が「東京オペラシティ」、新東京国立劇場はこの奥。2016.6.22
小雨の「新宿中央公園
さすがに、だれもいない。
新宿のど真ん中の緑地。直ぐ西は都庁。今日から参議院の公示、道には選挙カーが走り回っていた。2016.6.22
中央公園の北側には「熊野神社」がある。
大きい神社だが、「茅の輪くぐり」はなく、一寸残念。
小雨の中、コースを変えて来たのに……。
2016.6.22

定点観測   2016.4.7



毎年この時期に、全く同じアングルで撮影し続けてきた場所があります。
今年もその写真をアップします。新宿の高層ビル群と満開の桜の構図です。
実は数年前にソメイヨシノの樹齢は60年と聞きかじりました。 
以下、孫引きの細切れ知識をまとめてみると、旧上駒込村染井(現東京都豊島区駒込)で、大島桜江戸彼岸桜を交配させて誕生したのが最有力な説とされています。万葉集などの題材にもなっている自生種などとくらべると、日本の桜の代表的存在でありながら、生まれてから百数十年しか経っていないサクラです。
20年程度で木の横の広がりが20メートルを超える成長の早さから短期間で名所を作れて、花弁が5枚一重なのでボリュームが出て花見にいい、苗木が安い、などが有力な理由でソメイヨシノは一気に全国に広まりました。
一方で、病気に弱い性質を持つソメイヨシノ。折れた枝や枝の切り口から幹を腐らせる菌が侵入しやすく、樹齢50年を超えると幹の内部が腐ることから、「60年で寿命を迎えてしまう」という説もあります。また、種で増えることができない園芸種のため、自然に新しい木が増えることもありません。
敗戦後からの復興や東京オリンピックに合わせて植えられたものが多いことを考えると、この先が心配です。
少し話はそれますが、気象庁が桜の開花予想の基準としているのもソメイヨシノです。
まあ、ざっとまとめるとそんな事が書かれていました。

そう言われてみれば今年のソメイヨシノの桜は、何処を眺めても、花の色が例年よりも薄いような気がしたのは私だけでしょうか。それに、苔のはえた幹が一段と多くなり、その枝が随分と黒く、「あれ」と思いました。
吉野や嵐山の山桜、どっしりとした彼岸桜などと比べると人工増殖のソメイヨシノは、大分貧弱ですが、それでも満開になって散り始めると同時に、若葉が芽吹き始めて新緑の葉が混じります。私はその景色が大好きです。桜の開花状態を示す指標の一分咲き、二分咲きと言うように、葉桜では葉と花の割合を示す言葉として満開以降は一分葉桜から、六分、七分葉桜と順次呼び、桜の花びらが全て落花し樹木全体が新緑の葉で瑞々しく艶を帯びた状態を「葉桜」と呼びます。それ以降の時期で単に葉が茂っている状態の桜を葉桜と呼ぶことはないそうです。
「葉桜」の季語は「初夏」に属します。季語としては随分と期間が長いし、葉桜を詠んだ俳句や短歌は多いのですが、読み手の心象である、花が散ったこととその後に湧き立つ生命力のたくましさを同時に表現するのは難しく、「葉桜」の秀歌は少ないようです。
俳句ですが、「葉桜はつまらぬものよ隅田川 子規」とはあまりに素っ気ないものもあります。

ところで「姥桜のような女性だ」という言葉を聞いて、どんな印象を持ちますか?
彼岸桜や江戸彼岸など葉が出るより先に花が開く桜の通称を「姥桜」といいます。
桜の花が散るまで枝に葉をつけない特徴の桜です。本来は「葉がなくても美しい、歯なし(=老いて)でも年齢を重ねた美しい女性」という意味でしたが、「歯がない=入れ歯が必要な老婆」とそこだけが強調され、最近では年齢に似合わず若づくりをしている年増、老女をからかい気味にいうことが多くなったようです。
しかし本来の意味を知ったからと言って「あなたは姥桜のようです」と使ったら、不興を買いますのでご用心!!
当たり障りのない雑学なので久しぶりにブログにもアップします。 真面目な話は、直接メールで特定の方々にお送り致しております。
●定点観測・新宿高層ビルを臨む
玉川上水遊歩道
(5〜6年前、毛虫が多く発生して困るという、アホなPATからの訴えで極端に桜が伐られた。
本来、桜には毛虫がいるのが当然。自然の節理を知らない無知者の横暴、それにたやすく首肯する行政の腰抜け。日本をおかしくするのはこういう「似非民主主義」の跋扈である)
ソメイヨシノだけではありません これも春景色

「夏の熾火」に思う、唯我独尊


11月に上梓した長編時代小説「夏の熾火」お陰様で好評です。
私がライフワークにしている「四季四部作」の三作目の作品です。

実際の歴史上の人物は、その生まれも昇天した日時も定かではないけれど、その業績だけははっきりと歴史の中に止めている人物は多い。
拙著の「四季四部作」の中で活躍する人物の多くはそういう人物だ。だから、私が物語にするまで主人公にならなかった名人偉人が多い。

「夏の熾火」の三人の主人公、吉見台右衛門、葛西薗右衛門、和佐大八郎はいずれも紀州藩藩士であり、紀州竹林派の弓術の名人であった。
藩という制約の中で何とか流派の隆盛をはかろうとする吉見台右衛門。実直だが若い時分は神経質で、父を過剰に意識して、その克服に時間がかかった。

その愛弟子葛西薗右衛門、過去現在そして将来もこれ程弓射の天賦の才を持った弓術家は存在しないという大記録を持つ。若くして逝ってしまったが、彼は弓術家として極めることがその最終目的ではなく、彼の野望は政治への参加だった。

また台右衛門の最後の弟子ともいえる、和佐大八郎。三十三間堂で行われた「大矢数」で打ち立てた、8133本の射越は、これからも決して破られない。しかし彼は、その偉業に安住し、時代の流れから取り残され、遂には、五代藩主の徳川吉宗から放逐されてしまった。
この「夏の熾火」は弓道小説でありながら、奥行きは、その範疇を超えて深い。
それが出来るのは、残された文献と歴史研究家の実績だけでは埋まらないその隙間を埋める作家の創造力である。書き手の使命と読み手の醍醐味はそこに存する。

しかし弊社のような弱小の出版社の上梓する出版物の読者は少ない。この先、多くの方にお読み頂く事も出版経営者としてまた作家としての務めだ。そのための戦略を策定し販促活動も自ら動かなければならない。
併せて、硬めの「超長編歴史小説」とは別に、もう少し読みやすく小編・中編小説も書き始めた。

作家活動を遅く始めた私としては、他の作家とは真逆な執筆方針で、長編を無名の時から書き連ね現在に至った。そのアプローチは正しいと思っている。というのも、早くして認められ私小説的な短編小説しか書かなかった「有名作家」が、その晩年に長編小説を書こうと呻吟しても残念ながら殆どは失敗に終わる。過去の名前のみに縋り、読むに堪えない物語しか生み出せないというのが事実である。
気力体力とその維持につとめ、創造力が枯渇しない「私ハソウイウ物書キニナリタイ」。

長めの追伸
国立新競技場建設予定地にも6センチの積雪。(写真:朝日新聞ブログより)
たった6センチの積雪で、都市機能が麻痺してしまう。そこで生活している我々は多大な不都合を被る。自然の猛威にいかんともしがたい人間の弱さを思い知らされる。

ところでこの降雪は、新競技場の更地全てを真っ白に雪化粧したが、その隠された広大な空き地(やがて建設されるであろう)には、権力欲、金銭欲、名誉欲、複雑な人間関係など様々などす黒い思惑が隠蔽されている。
いつの時代も同じだが、我々が表向き知らされている「歴史」は勝者の歴史だ。勝者にとって都合の悪い「欲望」は全て抹消されて、都合の良いことばかりが「正しい歴史」となり、更に勝者は正当化の更なる上塗り(真っ白な雪化粧にしたい)をする。
ただし「弱者」の立場の側も、その「不幸」を殊更誇張することがある。物書きはそこを冷徹な目で見なければならない。

これは過去の歴史に限らず、例えば、今現在起こっているSMAPの一連の騒動もそうであろう。新聞やテレビに載らない人間の裏側の欲望としがらみを掘り下げて考えてみるのも時には大切だろう。

「夏の熾火」から「秋の遠音」





平成28年新年、読者の皆様にとりまして今年一年が幸多かれとお祈り申し上げます。
11月の11日に最後のブログをアップして以降、今日まですべての予定を無事終了し、風邪も引かずに過ごすことが出来ました。いゃあ、ブログも書けないほどに忙しい毎日でした。
「夏の熾火」の上梓をはじめ、講演会や、取材、そして多くの忘年会。体調維持が出来たのも、弓道や居合の日頃の稽古によるものだと思っています。

お陰様で流通を通してアマゾンなどから「冬の櫻」の結構な注文があって、手許には殆ど無くなりました。今後はより多くの方々に私の小説を読んでいただくために、次の手段も考えます。

ところで、年末29日から1月5日まで、大晦日と元旦を除き、かなりストイックな日常を過ごしました。毎年のことですが、事務所にこもって物書きです。加えて今年は、1時間以上のジョギング・ウォーキングも加えて、基礎体力アップを図りました。
昨年の11月に「夏の熾火」を上梓した後、丹念に見直しをしました。物語の全体構成を一読者の目で冷静に見ても、この小説は面白いと思います。うぬぼれでも何でも無く、歴史に残る作品だと自負しています。ただ誤字が多く、弊社のネットショップからの購入して頂く方の為にシール貼りなどして対処しています。校正の大切さを我が身に染みこませるためです。
筆者自身が作家の目と、校閲の目の双方を持っている優秀な「校正者」になるのは難しいと改めて思います。優秀な「校正者」を求めています。

正月休みの期間中、「風浪の果てに」という中編の全4章の第2章を執筆していました。ライフワークの長編時代小説「四季四部作」の最後の「秋の遠音」も書き始めました。夢中になって、ネットショップの改訂やプログラムの修正も後回しです。まあ、好きなことをやらせて貰っている環境と健康に感謝し、今年一年、オーバーヒートにならない範囲で頑張ります。
皆様の御声援をよろしくお願いいたします。春吉省吾

写真●福島高校講演会11月27日●クリスマスイブの神田ニコライ堂平将門伝説「築土神社」12月25日九段下●出初め式の訓練1月5日東京消防学校・ジョギングコース